近未来都市の幽寂

近未来都市の幽寂

サブブログ。転載・メモ用途。

四隅

770 :四隅:2006/08/28(月) 20:24:24 ID:9j0TgqFm0

大学1回生の初秋。
オカルト系のネット仲間と、『合宿』と銘打ってオフ会を開いた。
山間のキャンプ地で、『出る』という噂のロッジに泊まることにしたのである。
オフ会は普段からよくあったのだが、泊まりとなると女性が多いこともあり、
あまり変なメンバーを入れたくなかったので、ごく内輪の中心メンバーのみでの合宿となった。
参加者はリーダー格のCoCoさん、京介さん、みかっちさんの女性陣に、俺を含めた計4人。
言ってしまえば荷物持ち&力仕事専用の俺なわけだが、呼ばれたことは素直に嬉しかった。
日程は1泊2日。

レンタカーを借りて乗り込んだのだが、シーズンを外したおかげでキャンプ地はわりに空いていて、
うまい空気吸い放題、ノラ猫なで放題、やりたい放題だったはずだが、
みかっちさんが「かくれんぼをしよう」と言い出して、始めたはいいものの、CoCoさんが全然見つからずそのまま日が暮れた。
夕飯時になったので放っておいてカレーを作り始めたら、どこからともなく出てきたのだが、
俺はますますCoCoさんがわからなくなった。
ちなみに、俺以外は全員20代のはずだったが……


771 :四隅:2006/08/28(月) 20:25:05 ID:9j0TgqFm0

その夜のことである。
『出る』と噂のロッジも、酒が入るとただの宴の会場となった。
カレーを食べ終わったあたりから急に天気が崩れ、思いもかけず強い雨に閉じ込められてしまい、
夜のロッジは小さな照明が揺れる中、ゴーゴーという不気味な風雨の音に包まれている、
という素晴らしいオカルト的環境であったにも関わらず、酒の魔力はそれを上回っていた。
さんざん芸をやらされ疲れ果てた俺が壁際にへたり込んだ時、前触れもなく照明が消えた。
やたらゲラゲラ笑っていたみかっちさんも口を閉じ、一瞬沈黙がロッジに降りた。
「停電だぁ」と誰かが呟いてまた黙る。屋根を叩く雨と風の音が大きくなった。
照明の消えた室内は真っ暗になり、ヘタレの俺は急に怖くなった。

「これは、アレ、やるしかないだろう」と京介さんの声が聞こえた。
「アレって、なんですか」
「大学の山岳部の4人が遭難して、山小屋で一晩をすごす話。かな」
CoCoさんが答えた。
暗闇のなか体を温め眠気をさますために、
4人の学生が部屋の四隅にそれぞれ立ち、時計回りに最初の一人が壁際を歩き始める。
次の隅の人に触ると、触られた人が次の隅へ歩いていってそこの人に触る。
これを一晩中繰り返して、山小屋の中をぐるぐる歩き続けたというのだが、
実は4人目が隅へ進むとそこには誰もいないはずなので、そこで止まってしまうはずなのだ。
いるはずのない5人目がそこにいない限り……


772 :四隅:2006/08/28(月) 20:25:38 ID:9j0TgqFm0

という話をCoCoさんは淡々と語った。
どこかで聞いたことがある。子供だましのような話だ。
そんなものノリでやっても絶対になにも起きない。しらけるだけだ。
そう思っていると、京介さんが「ルールを二つ付け加えるんだ」と言い出した。

1.スタート走者は、時計回り反時計回りどちらでも選べる。
2.誰もいない隅に来た人間が、次のスタート走者になる。

次のスタート走者って、それだと5人目とかいう問題じゃなく普通に終わらないだろ。
そう思ったのだが、なんだか面白そうなのでやりますと答えた。
「じゃあ、これ。誰がスタートかわかんない方が面白いでしょ。あたり引いた人がスタートね」
CoCoさんに渡されたレモン型のガムを持って、俺は壁を這うように部屋の隅へ向かった。
「みんなカドについた?じゃあガムをおもっきし噛む」
部屋の対角線あたりからCoCoさんの声が聞こえ、言われたとおりにするとほのかな酸味が口に広がる。
ハズレだった。アタリは吐きたくなるくらい酸っぱいはずだ。
京介さんがどこの隅へ向かったか気配で感じていた俺は、全員の位置を把握できていた。


773 :四隅:2006/08/28(月) 20:26:15 ID:9j0TgqFm0

CoCo    京介


みかっち  俺

こんな感じのはずだ。
誰がスタート者か、そしてどっちから来るのかわからないところがゾクゾクする。
つまり自分が『誰もいないはずの隅』に向かっていても、それがわからないのだ。
角にもたれかかるように立っていると、バタバタという風の音を体で感じる。
いつくるかいつくるかと身構えていると、いきなり右肩を掴まれた。
右から来たということは京介さんだ。
心臓をバクバク言わせながらも声一つあげずに、俺は次の隅へと壁伝いに進んだ。
時計回りということになる。
自然と小さな歩幅で歩いたが、暗闇の中では距離感がはっきりせず、妙に次の隅が遠い気がした。
ちょっと怖くなって来たときに、ようやく誰かの肩とおぼしきものに手が触れた。みかっちさんのはずだ。
一瞬ビクっとしたあと、人の気配が遠ざかって行く。
俺はその隅に立ち止まると、また角にもたれか掛かった。壁はほんのりと暖かい。
そうだろう。誰だってこんな何も見えない中で、なんにも触らずには立っていられない。


774 :四隅:2006/08/28(月) 20:26:59 ID:9j0TgqFm0

風の音を聞いていると、またいきなり右肩を強く掴まれた。京介さんだ。わざとやっているとしか思えない。
俺は闇の向こうの人物を睨みながら、また時計回りに静々と進む。
さっきのリプレイのように誰かの肩に触れ、そして誰かは去っていった。
その角で待つ俺は、こんどはビビらないぞと踏ん張っていたが、やはり右から来た誰かに右肩を掴まれビクリとするのだった。

そして、『俺が次のスタート走者になったら方向を変えてやる』と密かに誓いながら進むことしばし。
誰かの肩ではなく垂直に立つ壁に手が触れた。
一瞬声をあげそうになった。
ポケットだった。
誰もいない隅を、なぜかその時の俺は頭の中でそう呼んだ。たぶんエア・ポケットからの連想だと思う。
ポケットについた俺は、念願の次のスタート権を得たわけだ。
今4人は四隅のそれぞれにたたずんでいることになる。
俺は当然のように反時計回りに進み始めた。
ようやく京介さんを触れる!
いや、誤解しないで欲しい。なにも女性としての京介さんを触れる喜びに浸っているのではない。
ビビらされた相手へのリベンジの機会に燃えているだけだ。
ただこの闇夜のこと、変なところを掴んでしまう危険性は確かにある。
だがそれは仕方のない事故ではないだろうか。
俺は出来る限り足音を殺して右方向へ歩いた。
そしてすでに把握した距離感で、ここしかないという位置に左手を捻りこんだ。


775 :四隅:2006/08/28(月) 20:27:45 ID:9j0TgqFm0

次の瞬間、異常な硬さが指先を襲った。指をさすりながらゾクッとする。
壁?ということはポケット?そんな。俺からスタートしたのに……
呆然とする俺の左肩を何者かが強く掴んだ。京介さんだ。
俺は当然、壁に接している人影を想像して左手を出したのに。なんて人だ。
暗闇の中、壁に寄り添わずに立っていたなんて。
あるいは罠だったか。
人の気配が壁伝いに去っていく。
悔しさがこみ上げて、残された俺は次はどういくべきか真剣に思案した。

そしてしばらくしてまた右肩を掴まれたとき、恥ずかしながら「ウヒ」という声が出た。
くそ!京介さんだ。また誰か逆回転にしやがったな。
こんどこそ悲しい事故を起こすつもりだったのに。
頭の中で毒づきながら時計回りに次の隅へ向かう。そしてみかっちさん(たぶん)には遠慮がちに触った。

次の回転でも右からだった。その次も。その次も。
俺はいつまでたっても京介さんを触れる反時計回りにならないことにイライラしながら、
はやくポケット来いポケット来いと念じていた。
次ポケットが来たら当然反時計回りにスタートだ。
俺はそれだけを考えながら回り続けた。

何回転しただろうか、闇の中で気配だけが蠢く不思議なゲームが急に終わりを告げた。


776 :四隅:2006/08/28(月) 20:28:18 ID:9j0TgqFm0

「キャー!」という悲鳴に背筋が凍る。
みかっちさんの声だ。
ドタバタという音がして、懐中電灯の明かりがついた。
京介さんが天井に向けて懐中電灯を置くと、部屋は一気に明るくなった。
みかっちさんは部屋の隅にうずくまって頭を抱えている。
CoCoさんが「どうしたの?」と近寄っていくと、
「だって、おかしいじゃない!どうして誰もいないトコが来ないのよ!」
それは俺も思う。ポケットが来さえすれば京介さんを……まて。なにかおかしい。
アルコールで回転の遅くなっている頭を叩く。
回転が止まらないのは変じゃない。5人目がいなくても、ポケットに入った人が勝手に再スタートするからだ。
だから、ぐるぐるといつまでも部屋を回り続けることに違和感はないが……
えーと、最初の1人目がスタートして次の人に触り、4人目がポケットに入る。これを繰り返してるだけだよな。
えーと、だから……どうなるんだ?
こんがらがってきた。
「もう寝ようか」というCoCoさんの一言で、とりあえずこのゲームはお流れになった。
京介さんは俺に向かって「残念だったな」と言い放ち、人差し指を左右に振る。
みかっちさんもあっさりと復活して、「まあいいか」なんて言っている。
さすがオカルトフリークの集まり。
この程度のことは気にしないのか。むしろフリークだからこそ気にしろよ。
俺は気になってなかなか眠れなかった。


777 :四隅:2006/08/28(月) 20:28:50 ID:9j0TgqFm0

夢の中で異様に冷たい手に右肩をつかまれて悲鳴をあげたところで、次の日の朝だった。
京介さんだけが起きていてあくびをしている。
「昨日起ったことは、京介さんはわかってるんですか」
朝の挨拶も忘れてそう聞いた。
「あの程度の酒じゃ、素面も同然だ」
ズレた答えのようだが、どうやら『わかってる』と言いたいらしい。
俺はノートの切れ端にシャーペンで図を描いて考えた。

ACoCo    B京介

Dみかっち  C俺

そしてゲームが始まってから起ったことをすべて箇条書きにしていくと、ようやくわかって来た。
酒さえ抜けると難しい話じゃない。
これはミステリーのような大したものじゃないし、正しい解答も一つとは限らない。
俺がそう考えたというだけのことだ。でもちょっと想像してみて欲しい。あの闇の中で何がおこったのか。


778 :四隅:2006/08/28(月) 20:29:55 ID:9j0TgqFm0

1 時計
2 時計
3 時計
4 反時計
5 時計
6 時計
7 時計
8 時計
9 時計
10 時計
……

俺が回った方向だ。
そして3回目の時計回りで、俺はポケットに入った。
仮にAが最初のスタートだったとしたら、時計回りなら1回転目のポケットはD、
そして同じ方向が続く限り、2回転目のポケットはC、3回転目はB、と若くなっていく。
つまり同一方向なら、必ず誰でも4回転に一回はポケットが来るはずなのだ。
とすると、5回転目以降の時計回りの中で俺にポケットが来なかったのはやはりおかしい。
もう一度図に目を落とすと、3回転目で俺がポケットだったことから逆算するかぎり、
最初のスタートはBの京介さんで、時計回りということになる。
1回転目のポケット&2回転目のスタートはCoCoさんで、
2回転目のポケット&3回転目スタートはみかっちさん、そしてその次が俺だ。
俺は方向を変えて反時計回りに進み、4回転目のポケット&5回転目のスタートはみかっちさん。
そしてみかっちさんはまた回転を時計回りに戻したので、5回転目のポケットは……俺だ。
俺のはずなのに、ポケットには入らなかった。誰かがいたから。


779 :四隅:2006/08/28(月) 20:30:29 ID:9j0TgqFm0

だからそのまま時計回りに回転は続き、そのあと一度もポケットは来なかった。
どうして5回転目のポケットに人がいたのだろうか。
『いるはずのない5人目』という単語が頭をよぎる。
あの時みかっちさんだと思って遠慮がちに触った人影は、別のなにかだったのか。
「ローシュタインの回廊ともいう」
京介さんがふいに口を開いた。
「昨日やったあの遊びは、黒魔術では立派な降霊術の一種だ。
 アレンジは加えてあるけど、いるはずのない5人目を呼び出す儀式なんだ」
おいおい。降霊術って……
「でもまあ、そう簡単に降霊術なんか成功するものじゃない」
京介さんはあくびをかみ殺しながらそう言う。
その言葉と、昨日懐中電灯をつけたあとの妙に白けた雰囲気を思い出し、俺は一つの回答へ至った。
「みかっちさんが犯人なわけですね」
つまり、みかっちさんは5回転目のスタートをして時計回りにCoCoさんにタッチしたあと、
その場に留まらずに、スタート地点まで壁伝いにもどったのだ。
そこへ俺がやってきてタッチする。
みかっちさんはその後、二人分時計回りに移動してCoCoさんにタッチ。そしてまた一人分戻って俺を待つ。
これを繰り返すことで、みかっちさん以外の誰にもポケットがやってこない。
延々と時計回りが続いてしまうのだ。
「キャー!」という悲鳴でもあがらない限り。


786 :四隅:2006/08/28(月) 21:29:48 ID:9j0TgqFm0

せっかくのイタズラなのにいつまでも誰もおかしいことに気づかないので、自演をしたわけだ。
しかしCoCoさんも京介さんも昨日のあの感じでは、どうやらみかっちさんのイタズラには気がついていたようだ。
俺だけが気になって変な夢まで見てしまった。情けない。

朝飯どきになって、みかっちさんが目を覚ました後、
「ひどいですよ」と言うと、「えー、わたしそんなことしないって」と白を切った。
「このロッジに出るっていう、お化けが混ざったんじゃない?」
そんなことを笑いながら言うので、そういうことにしておいてあげた。

後日、CoCoさんの彼氏にこの出来事を話した。
俺のオカルト道の師匠でもある変人だ。
「で、そのあと京介さんが不思議なことを言うんですよ。
 5人目は現れたんじゃなくて、消えたのかも知れないって」
あのゲームを終えた時には4人しかいない。
4人で始めて5人に増えて、また4人にもどったのではなく、
最初から5人で始めて、終えた瞬間に4人になったのではないか、と言うのだ。
しかし、俺たちは言うまでもなく最初から4人だった。
なにをいまさらという感じだが、京介さんはこう言うのだ。
「よく聞くだろう、神隠しってやつには最初からいなかったことになるパターンがある」と。


787 :四隅:2006/08/28(月) 21:30:22 ID:9j0TgqFm0

つまり、消えてしまった人間に関する記憶が周囲の人間からも消えてしまい、
矛盾が無いよう過去が上手い具合に改竄されてしまうという、オカルト界では珍しくない逸話だ。
しかしいくらなんでも、5人目のメンバーがいたなんて現実味が無さ過ぎる。
その人が消えて、何事もなく生活できるなんてありえないと思う。
しかし師匠はその話を聞くと、感心したように唸った。
「あのオトコオンナがそう言ったのか。面白い発想だなあ。
 その山岳部の学生の逸話は、日本では四隅の怪とかお部屋様とかいう名前で古くから伝わる遊びで、
 いるはずのない5人目の存在を怖がろうという趣向だ。
 それが実は5人目を出現させるんじゃなく、5人目を消滅させる神隠しの儀式だったってわけか」
師匠は面白そうに頷いている。
「でも、過去の改竄なんていう現象があるとしても、
 初めから5人いたら、そもそも何も面白くないこんなゲームをしますかね」
「それがそうでもない。山岳部の学生は一晩中起きているためにやっただけで、むしろ5人で始める方が自然だ。
 それから、ローシュタインの回廊ってやつは、もともと5人で始めるんだ」
5人で始めて、途中で一人が誰にも気づかれないように抜ける。
抜けた時点で回転が止まるはずが、なぜか延々と続いてしまうという怪異だという。
「じゃあ自分たちも5人で始めたんですかね。それだと途中で一度逆回転したのはおかしいですよ」


788 :四隅:2006/08/28(月) 21:32:00 ID:9j0TgqFm0

5人目が消えたなんていうバカ話に真剣になったわけではない。
ただ師匠がなにか隠しているような顔をしていたからだ。
「それさえ、実際はなかったことを、5人目消滅の辻褄あわせのために作られた記憶だとしたら、
 ストーリー性がありすぎて不自然な感じがするし、なんでもアリもそこまでいくとちょっと引きますよ」
「ローシュタインの回廊を知ってたのは、追加ルールの言いだしっぺのオトコオンナだったね。
 じゃあ、実際の追加ルールはこうだったかも知れない
 『1.途中で一人抜けていい。2.誰もいない隅に来た人間が次のスタート走者となり、方向を選べる』とかね」
なんだかややこしい。
俺は深く考えるのをやめて、師匠を問いただした。
「で、なにがそんなに面白いんですか」
「面白いっていうか、うーん。
 最初からいなかったことになる神隠しってさ、完全に過去が改竄されるわけじゃないんだよね。
 例えば、誰のかわからない靴が残ってるとか、集合写真で一人分の空間が不自然に空いてるとか。
 そういうなにかを匂わせる傷が必ずある。
 逆に言うと、その傷がないと誰も何か起ってることに気づかない訳で、そもそも神隠しっていう怪談が成立しない」
なるほど、これはわかる。
「ところでさっきの話で、一箇所だけ違和感を感じた部分がある。
 キャンプ場にはレンタカーで行ったみたいだけど……
 4人で行ったなら、普通の車でよかったんじゃない?」
師匠はそう言った。


789 :四隅   ラスト:2006/08/28(月) 21:32:41 ID:9j0TgqFm0

少なくとも、京介さんは4人乗りの車を持っている。
わざわざ借りたのは、師匠の推測の通り6人乗りのレンタカーだった。
確かにたかが1泊2日。ロッジに泊まったため、携帯テントなどキャンプ用品の荷物もほとんどない。
どうして6人乗りが必要だったのか。
どこの二つの席が空いていたのか思い出そうとするが、あやふやすぎて思い出せない。
どうして6人乗りで行ったんだっけ……
「これが傷ですか」
「どうだかなぁ。ただアイツが言ってたよ。かくれんぼをしてた時、勝負がついてないから粘ってたって。
 かくれんぼって、時間制限があるなら鬼と隠れる側の勝負で、時間無制限なら最後の一人になった人間の勝ちだよね。
 どうしてかくれんぼが終わらなかったのか。あいつは誰と勝負してたんだろう」
師匠のそんな言葉が頭の中をあやしく回る。
なんだか気分が悪くなって、逃げ帰るように俺は師匠の家を出た。

帰り際、俺の背中に「まあそんなことあるわけないよ」と師匠が軽く言った。
実際それはそうだろうと思うし、今でもあるわけがないと思っている。
ただその夜だけは、いたのかも知れない、いなくなったのかも知れない、
そして、友達だったのかも知れない5人目のために祈った。

 

将棋

910 :将棋  1/8:2006/02/22(水) 20:03:27 id:CqBHiC0Y0

師匠は将棋が得意だ。
もちろん将棋の師匠ではない。大学の先輩でオカルトマニアの変人である。
俺もまたオカルトが好きだったので、師匠師匠と呼んでつきまとっていた。

大学1回生の秋に、師匠が将棋を指せるのを知って勝負を挑んだ。俺も多少心得があったから。
しかし結果は惨敗。角落ち(ハンデの一種)でも相手にならなかった。
1週間後、パソコンの将棋ソフトをやり込んでカンを取り戻した俺は、再挑戦のために師匠の下宿へ乗り込んだ。
結果、多少善戦した感はあるが、やはり角落ちで蹴散らされてしまった。
感想戦の最中に師匠がぽつりと言った。
「僕は亡霊と指したことがある」
いつもの怪談よりなんだか楽しそうな気がして身を乗り出した。


911 :将棋  2/8:2006/02/22(水) 20:04:45 id:CqBHiC0Y0

「手紙将棋を知ってるか」と問われて頷く。
将棋は普通、長くても数時間で決着がつく。1手30秒とかの早指しなら数十分で終わる。
ところが手紙将棋というのは、盤の前で向かい合わずに、お互い次の手を手紙で書いてやり取りするという、
なんとも気の長い将棋だ。
風流すぎて若者には理解出来ない世界である。
ところが師匠の祖父はその手紙将棋を、夏至冬至だけというサイクルでしていたそうだ。
夏至に次の手が届き、冬至に返し手を送る。
年に2手しか進まない。将棋は1勝負に100手程度かかるので、終わるまでに50年はかかる計算になる。
「死んじゃいますよ」
師匠は頷いて、祖父は5年前に死んだと言った。

戦時中のことだ。
前線に出た祖父は娯楽のない生活のなかで、小隊で将棋を指せるただひとりの戦友と、
紙で作ったささやかな将棋盤と駒で、あきることなく将棋をしていたという。


912 :将棋  3/8:2006/02/22(水) 20:05:30 id:CqBHiC0Y0

その戦友が負傷をして本土に帰されることになったとき、二人は住所を教えあい、
ひと時の友情の証しに、戦争が終われば手紙で将棋をしようと誓い合ったそうだ。
戦友は北海道出身で、住むところは大きく隔たっていた。
戦争が終わり復員した祖父は、約束どおり冬至に手紙を出した。『2六歩』とだけ書いて。
夏至に『3四歩』とだけ書いた無骨な手紙が届いたとき、祖父は泣いたという。
それ以来、年に2手だけという将棋は続き、
祖父は夏至に届いた手への返し手を半年かけて考え、
冬至に出した手にどんな手を返してくるか、半年かけて予想するということを、
それは楽しそうにしていたそうだ。
5年前にその祖父が死んだとき、将棋は100手に近づいていたが、まだ勝負はついていなかった。
師匠は祖父から将棋を学んでいたので、
ここでバカ正直な年寄りたちの生涯をかけた遊びが途切れることを残念に思ったという。


913 :将棋  4/8:2006/02/22(水) 20:06:42 id:CqBHiC0Y0

手紙が届かなくなったらどんな思いをするだろう。
祖父の戦友だったという将棋相手に連絡を取ろうかとも考えた。それでもやはり悲しむに違いない。
ならばいっそ自分が祖父のふりをして次の手を指そう、と考えたのだそうだ。
宛名は少し前から家の者に書かせるようになっていたので、師匠は祖父の筆跡を真似て『2四銀』と書くだけでよかった。
応酬はついに100手を超え、勝負が見えてきた。
「どちらが優勢ですか」俺が問うと、師匠は複雑な表情でぽつりと言った。
「あと17手で詰む」
こちらの勝ちなのだそうだ。
2年半前から詰みが見えたのだが、それでも相手は最善手を指してくる。
華を持たせてやろうかとも考えたが、向こうが詰みに気づいてないはずはない。
それでも投了せずに続けているのは、
この遊びが途中で投げ出していいような遊びではない、という証しのような気がして、胸がつまる思いがしたという。


914 :将棋  5/8:2006/02/22(水) 20:07:31 id:CqBHiC0Y0

「これがその棋譜」と、師匠が将棋盤に初手から示してくれた。
2六歩、3四歩、7六歩・・・
矢倉に棒銀という古くさい戦法で始まった将棋は、1手1手のあいだに長い時の流れを確かに感じさせた。
俺も将棋指しの端くれだ。
今でははっきり悪いとされ指されなくなった手が迷いなく指され、十数手後にそれをカバーするような新しい手が指される。
戦後進歩を遂げた将棋の歴史を見ているような気がした。
7四歩突き、同銀、6七馬・・・局面は終盤へと移り、勝負は白熱して行った。
「ここで僕に代わり、2四銀とする」
師匠はそこで一瞬手を止め、また同馬とした。
次の桂跳ねで、細く長い詰みへの道が見えたという。
難しい局面で俺にはさっぱりわからない。
「次の相手の1手が投了ではなく、これ以上無いほど最善で、そして助からない1手だったとき、
 僕は相手のことを知りたいと思った」
祖父と半世紀にわたってたった1局の将棋を指してきた友だちとはどんな人だろう。


915 :将棋  6/8:2006/02/22(水) 20:08:19 id:CqBHiC0Y0

思いもかけない師匠の話に俺は引き込まれていた。
不謹慎な怪談と傍若無人な行動こそ、師匠の人となりだったからだ。
経験上、その話にはたいてい嫌なオチが待っていることも忘れて・・・
「住所も名前も分かっているし、調べるのは簡単だった」
俺が想像していたのは、80歳を過ぎた老人が、古い家で旧友からの手紙を心待ちにしている図だった。
ところが、師匠は言うのである。
「もう死んでいた」
ちょっと衝撃を受けて、そしてすぐに胸に来るものがあった。
師匠が相手のことを思って祖父の死を隠したように、相手側もまた師匠の祖父のことを思って死を隠したのだ。
いわば、優しい亡霊同士が将棋を続けていたのだった。
しかし、師匠は首を振るのである。
「ちょっと違う」
少しドキドキした。


916 :将棋  7/8:2006/02/22(水) 20:09:16 id:CqBHiC0Y0

「死んだのは1945年2月。戦場で負った傷が悪化し、日本に帰る船上で亡くなったそうだ」
びくっとする。俄然グロテスクな話になって行きそうで。
では、師匠の祖父と手紙将棋をしていたのは一体何だ?
『僕は亡霊と指したことがある』という師匠の一言が頭を回る。
師匠は青くなった俺を見て笑い、「心配するな」と言った。
「その後、向こうの家と連絡をとった」
こちらのすべてを明らかにしたそうだ。すると向こうの家族から長い書簡がとどいたという。
その内容は以下のようなものだった。

祖父の戦友は船上で死ぬ間際に、家族に宛てた手紙を残した。その中にこんな下りがあった。
『私はもう死ぬが、それと知らずに私へ手紙を書いてくる人間がいるだろう。
 その中に将棋の手が書かれた間抜けな手紙があったなら、どうか私の死を知らせないでやってほしい。
 そして出来得れば、私の名前で応答をしてほしい。
 私と将棋をするのをなにより楽しみにしている、大バカで気持ちのいいやつなのだ』


917 :将棋  8/8:2006/02/22(水) 20:10:07 id:CqBHiC0Y0

師匠は語りながら、盤面をすすめた。
4一角
3二香
同銀成らず
同金
その同金を角が取って成ったとき涙が出た。
師匠に泣かされたことは何度もあるが、こういうのは初めてだった。
「あと17手、年寄りどもの供養のつもりで指すことにしてる」
師匠は指を駒から離して、「ここまで」と言った。

 

夢の鍵を求めて

967 :1/5:2006/01/21(土) 11:43:38 ID:9bX5hJte0

大学2回生の夏休み。
オカルトマニアの先輩に「面白いものがあるから、おいで」と言われた。
師匠と仰ぐその人物にそんなことを言われたら行かざるを得ない。
ノコノコと家に向かった。
師匠の下宿はぼろいアパートの一階で、あいかわらず鍵をかけていないドアをノックして入ると、
畳の上に座り込んでなにかをこねくり回している。
トイレットペーパーくらいの大きさの円筒形。金属製の箱のようだ。表面に錆が浮いている。
「その箱が面白いんですか」と聞くと、
「開けたら死ぬらしい」
この人はいっぺん死なないとわからないと思った。
「開けるんですか」
「開けたい。けど開かない」
見ると箱からは小さなボタンのようなでっぱりが全面に出ていて、円筒の上部には鍵穴のようなものもある。
「ボタンを正しい順序で押し込まないとダメらしい」
師匠はそう言って、夢中で箱と格闘していた。


968 :2/5:2006/01/21(土) 11:44:08 ID:9bX5hJte0

「開けたら、どうして死ぬんですか」
「さあ」
「どこで手に入れたんですか」
「××市の骨董品屋」
「開けたいんですか」
「開けたい。けど開かない」
死ぬトコ見てみてェ。
俺はパズルの類は好きなので、やってみたかったが我慢した。
「ボタンは50個ある。
 何個連続で正しく押さないといけないのかわからないけど、音聞いてる限り、だいぶ正解に近づいてる気がする」
「その鍵穴はなんですか」
「そこなんだよ」
師匠はため息をついた。
2重のロックになっていて、最終的には鍵がないと開かないらしい。
「ないんですか」
「いや。セットで手に入れたよ。でも落とした」と悲しそうに言う。
「どこに」と聞くと、「部屋」。
探せばいいでしょ。こんなクソ狭い部屋。
師匠は首を振った。


969 :3/5:2006/01/21(土) 11:44:51 ID:9bX5hJte0

「拾っちゃったんだよ」
「ハァ?」
意味がわからない。
「だから、ポケットに入れてたのを部屋のどっかに落としてさ。まあいいや、明日探そ、と寝たわけ。
 その夜、夢の中で玄関に落ちてるのを見つけてさ、拾ったの」
バカかこの人は。
「それで目が覚めて、正夢かもと思うわけ。で、玄関を探したけどない。
 あれー?と思って、部屋中探したけど出てこない。
 困ってたら、その日の晩、夢見てたら出てきたのよ。ポケットの中から」
ちょっとゾクっとした。なんだか方向性が怪しくなってきた。
「その次の朝、目が覚めてからポケットを探っても、もちろん鍵なんか入ってない。そこで思った。
 『夢の中で拾ってしまうんじゃなかった』」
やっぱこぇぇよこの人。
「それからその鍵が、僕の夢の中から出てきてくれない。いつも夢のポケットの中に入ってる。
 夢の中で鍵を机の引き出しにしまっておいて、目が覚めてから机の引き出しを開けてみたこともあるんだけど、
 やっぱり入ってない。
 どうしようもなくて、ちょっと困ってる」
信じられない話をしている。
落とした鍵を夢の中で拾ってしまったから現実から鍵が消滅して、夢の中にしか存在しなくなったというのか。
そして、夢の中から現実へ鍵を戻す方法を模索してると言うのだ。


970 :4/5:2006/01/21(土) 11:45:55 ID:9bX5hJte0

どう考えてもキチ○ガイっぽい話だが、師匠が言うとあながちそう思えないから怖い。
「あー!また失敗」と言って、師匠は箱を床に置いた。
いい感じだった音がもとに戻ったらしい。
「ボタンのパズルを解いても、鍵がないと開かないんでしょ」と突っ込むと、師匠は気味悪く笑った。
「ところが、わざわざ今日呼んだのは、開ける気満々だからだよ」
なにやら悪寒がして、俺は少し後ずさった。
「どうしても鍵が夢から出てこないなら、思ったんだよ。夢の中でコレ、開けちまえって」
なに?なに?
なにを言ってるのこの人。
「でさ、あとはパズルさえ解ければ開くわけよ」
ちょっと、ちょっと待って。
青ざめる俺をよそに、師匠はジーパンのポケットを探り始めた。
そして・・・
「この鍵があれば」
その手には錆ついた灰色の鍵が握られていた。


971 :5/5:2006/01/21(土) 11:47:02 ID:9bX5hJte0

その瞬間、硬質な金属が砕けるような物凄い音がした。
床抜け、世界が暗転して、ワケがわからなくなった。

誰かに肩を揺すられて光が戻った。
師匠だった。
「冗談、冗談」
俺はまだ頭がボーッとしていた。
師匠の手にはまだ鍵が握られている。
「今ので気を失うなんて・・・」と俺の脇を抱えて起こし、「さすがだ」と言った。やたら嬉しそうだ。
「さっきの鍵の意味が一瞬でわかったんだから、凄いよ。
 もっと暗示に掛かりやすい人なら、僕の目の前で消滅してくれたかも知れない」

・・・俺はなにも言えなかった。
鍵を夢で拾った云々はウソだったらしい。
その日は俺をからかっただけで、結局師匠は箱のパズルを解けなかった。
その箱がどうなったか、その後は知らない。

 

回帰5 呪いの地へ再び

910 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:24:38 id:bz1odVGo0

マミの治療は、マサさんが呼び寄せたチェンフィに引き継がれた。
俺の治療で縁の出来たチェンフィには、月に1度ほどの頻度で姉の診察・治療もして貰っていた。
人見知りの激しいマミもチェンフィとは面識が有ったので、比較的すんなりと治療に入れたようだ。
彼女の腕は確かだ。
マミの体のことは、安心して任せておけた。
 
俺はその日、天見琉華の呼び出しを受けていた。
マサさんと共に、彼女の教団本部に赴くと、其処には例の3人の子供達が来ていた。
やがて、天見琉華が姿を現した。
俺は、まず彼女に礼を述べた。
「礼なんて無用よ。
私は貴方を何度も危険な目に遭わせてきたのだから。
むしろ、膨大な借りが残っている。
それに、貴方やマミさんのことは、こちらの都合でもあるのだから、気にしないで」
実のところ、かなり緊張して赴いていた俺は拍子抜けしていた。
これまでの彼女のイメージと懸け離れた印象だった。
俺のそれまでの天見琉華へのイメージは、出来れば関わりを持ちたくない、冷酷で恐ろしい人物だった。
実際、彼女によって俺の手に余る危険な仕事を『押し付けられた』ことは1度や2度ではない。
我ながら、よく今日まで生き残れたものだと感心する。
彼女と彼女に関わる全てが俺にとって不吉だった。


911 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:26:56 id:bz1odVGo0

だが今、目の前にいる彼女は、柔らかい、孫とでも遊んでいるのがお似合いの、ただの老女だった。
一木耀子と似た優しい雰囲気を醸し出していた。
慶が言っていた。
『組織』の上層部は既に『呪術』を捨ててしまっていると。
これほど変わってしまうものなのか?
俺は、驚きを隠せなかった。
そして、改めて確信した。
『呪術』とは、人を不幸にしかしない、自分自身を傷付ける自傷行為に他ならないのだと。
マサさんの息子が俺に話しかけてきた。
「オジサン、『例の言葉』は見つかった?」
「ああ。『全てを許し、その存在を許容する』と言った所かな?」
「まあ、ほぼ正解。それを他人だけでなく、自分自身にも適用できれば良いのだけどね」
「自分自身に?他人にではなくて?」
「そう。他人を許すことはそんなに難しいことじゃない。許すと『決めて』しまえばいいんだ。
でも、自分自身を許すことは何倍も難しいよ。
マミを見れば判るでしょ?オジサン自身も自分の事を許せていないじゃないか」
「そうかな?」
「そうだよ。まあ、自分自身を完全に許せている人なんて、いないと思うけどね」
「だろうな」


912 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:29:32 id:bz1odVGo0

俺は、天見琉華に尋ねた。
「俺の死期とされていた『定められた日』って何だったんだ?」
「貴方も『瞑想者』なら気付いているはずよ?
勿論全ての『瞑想者』が気付いている訳ではないでしょうけど。
でも、貴方になら判るでしょう。
あなたが眠りに付く前と後では大きく変わった事があるはず」
「それは、『障壁』の事か?」
「そう、深い精神の階層との壁が一つ、消えてしまった」
「そうか、……あれは、俺の個人的な事象では無かったんだな」


913 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:30:51 id:bz1odVGo0

瞑想状態に入り込むと、ある一定の深度から先の段階で見たり聞いたりしたものを記憶に残す事が非常に困難となる。
同時に、昼間の顕在意識下での思考や意思をその先の瞑想深度で保持し続ける事も困難だ。
その境界を仮に『眠りの壁』と呼ぼう。
正にその名の如く、『眠り』が壁になってしまうのだ。経験のある人も多いだろう。
ただ、この壁を乗り越えることはそう難しい事ではない。
瞑想を繰り返せば『壁』自体が弱くなるし、一定の方法を知り訓練を重ねれば普通に思考する事も可能だ。
だが、次の段階にある『壁』は難物だ。
仮に『音の壁』とでも呼ぼうか?
この壁の向こう側では、言語による論理的思考は不可能だ。
人間は言語により思考する動物だから意識を保つ事も難しい。
言語で思考できない領域だから言葉で表現することは非常に難しい。
この領域ではバイブレーション、敢えて言うなら音の高低やリズム、音質で……『音楽』で思考する。
感情の起伏も『音』に顕著な影響を与える。
多くの宗教に様々な形で『音楽』が取り入れられているのは、この段階の精神階層にアクセスする為ではないかと俺は考えている。
俺は、この階層の瞑想中に聴いた『音楽』を持ち帰った。
そして、それを再生・演奏したものを繰り返し聞いて身に付けた。
イサムに託したUSBメモリーに入れてあった音楽ファイルだ。
あの音楽に、瞑想中に見聞きしたものを『感情』を『接着剤』に使って結び付けて記憶し、顕在意識下に持ち帰っていたのだ。


914 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:33:56 id:bz1odVGo0

一昨年末に、大きな変化が生じたという。
音の世界に『言葉』が混入し始めた。
曲に歌詞がついて『歌』となり、音の世界の音楽に混入し始めた、とでも言えば良いのだろうか?
今回、俺はこのように表現したが、瞑想のやり方は色々だし、感じ方もそれぞれ、表現も人によるだろう。
他人がどう表現するのか、俺にとっても興味深いのだが。
だが、確かに大きな変化が生じたようなのだ。
そして、変化の結果、人間の顕在意識下での思考が、言語による思考がより深い階層の意識に届き易くなってしまったらしい。
これは恐ろしい事態だ。
『願い』や『呪詛』が叶い易くなってしまったのだ。
より深い階層から、大きく強いうねりとして。
『願い』は良い。
潜在意識にアクセスする術を持つ者は、より早く、より強く自己の欲望を実現して行くだろう。
そして、恐らく、この精神の深奥を利用する術に気付くか気付かないかで、人々の間に新たな二極分化が生じるだろう。
問題は『呪詛』だ。
以前に書いたように、自己も他人も同じ生命体の一部。
他人を傷付ける事は、自己を傷つけることに等しい。
自己も他人も相対的なものだ。
違いがあるとすれば、それは呪詛の発信源からの『距離』か?
上手い表現が見つからない。
これまでの『呪詛』のエネルギーは、浅い階層を徐々に弱まりながら同心円状に広がっていった。
相手に当たった呪詛のエネルギーは跳ね返って自分にも戻ってきた。『呪詛返し』だ。
だが、『変化』の後、状況は変わった。


915 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:35:28 id:bz1odVGo0

浅い池の表面を叩くのではなく、深い池に重い石を投げ込んだ時、高く水柱が立つように、呪詛は仕掛けた者に直接降り掛かるようになったのだ。
今後、他人に呪詛を仕掛ける者は、恐らく、予想外の激烈な形で滅びを迎えるだろう。
俺は思う。
これは恐らく、『生命の樹』に備わった免疫反応なのだ。
他人に呪詛を仕掛ける存在を……『生命の樹』を傷つける『癌細胞』をより効果的にデリートするための。
先に延ばされた、次の変化のために。。。
俺には、これといった欲望は無い。
マミや他の家族と、仲の良い隣人に囲まれながら、平和に穏やかに暮らしたいだけだ。
だが、大人しくしているだけで、多分、俺の中には今尚住み着いているのだ。
激しい憎悪を内包した『鬼』が。
『鬼』の憎悪や怨念は、俺とマミの平穏を何れ破壊するだろう。
一度は『滅び』を免れたが、今尚俺は『生命の樹』を傷つける『癌細胞』の一つなのだ。
目を逸らして、知らない振りをしても無駄だ。
真の意味で『鬼』を鎮めなければならない。
和解しなければ。
既に途絶えているはずだった、俺の一族が今日まで存続し続けたのは、その為だったのかも知れない。


916 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:38:26 id:bz1odVGo0

「カズキ、お父さんに頼んで、コンタクトを取って欲しい人がいるんだ」
「行くんだね?」
「ああ。お前達には、全てお見通しだったな」
「まあね。お父さんにはもう頼んであるよ」
「そうか」
「おじさんが、本当は『赤い人』なのか『青い人』なのか、見極めさせてもらうよ」
マサさんが再会してから一度も外さなかったサングラスを外した。
マサさんの両眼は、俺が榊家に向かう直前に、マサさんの息子が見せたのと同じ青い光を帯びていた。
「この光が見えるということは、オジサンも僕らと繋がっていると言う事なんだよ」
「だから、俺は知らないはずのマミの治療法を知っていたんだな」
「そういうこと」
「マミを介して、オジサンは僕らと繋がっている。
オジサンが『赤い人』なのか『青い人』なのかは、まだ判らない。
マミが目覚めないのは、その為だろうね」
『赤い人』とは、多分、鏡に映った、夢の中でマミを手に掛けた、『鬼』の事なのだろう。


917 :回帰5 呪いの地へ再び ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:40:41 id:bz1odVGo0

「マミの為にも、オジサンには『青い人』になって欲しいな。
無事に帰ってきて、『今度は』セイジにオジサンの空手を教えてあげてよ。
あいつはオジサンの事が大好きなんだ。マミのこともね。
くれぐれも『赤い人』には気を付けて」

俺たち一族にとっては、捨て去った筈の呪いの地。
かつて、その地で俺たちに向けられた『呪詛の視線』を思い出し、俺の掌には冷たい汗が滲み出していた。
其処に何が待つのかは判らない。
だが、俺は行かなくてはならない。
俺たち一族を呪い続ける人々との『和解』のために。
それが、坂下家同様に、既に絶えていた筈の俺たちの一族が存続し、俺が今日まで生き延びてきた理由だと思えるからだ。 
今度こそ、逃げる訳には行かない。
逃げた先に安住の地はない。
今度こそ、手に入れるのだ。
マミや家族との平穏な暮らしを。
俺は父の実家のあった『田舎』、怨念の地へ向かう事にした。
  
 
おわり

 

回帰4 夢の樹に繋げば

888 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:20:04 id:bz1odVGo0

一木邸に一泊することになった俺は、眠れぬ夜を過ごしていた。
横になりながら、ぼんやりと考え事をしていると「いいかしら?」と言って、一木耀子が室内に入ってきた。
暫く無言の状態が続いたが、やがて、耀子が口を開いた。
「マミさん、……あの娘が貴方の『夢』だったのね?」
「ああ」
少し間を空けて、耀子が言葉を続けた。
「マミさんが言っていたわ。
あの娘は、子供の頃からずっと望んでいた。
無条件に自分を愛してくれて、守ってくれる存在を。……父親のような存在をね。
望んでも、自分には得られないものだと、初めから諦めていたらしいけど。
あなたも知っているように、辛い事ばかりだったあの娘は、更に辛い状況に追い込まれていたわ。
逃げ出したいけれど、怖くて逃げられない。
誰でもいいから、自分をここから連れ出して、救い出して欲しい。でなければ、いっそ死んでしまいたい。
実際に、死に方や死に場所を探している時に現れたのが貴方だったそうよ」
「……」
「貴方は、マミさんに、あの娘の貴方への思いは『刷り込み』かも知れないと言った事があるそうね?」
「ええ、ありますよ」
「そう。……貴方は、『引き寄せ』という言葉を知っている?」
「言葉だけなら聞いた事はあります」


889 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:21:22 id:bz1odVGo0

「マミさんは、まだ目覚めてはいないけれど、私たちが探し続けてきた『新しい子供』の一人。
そして、今判っている子供達の力の一つが『引き寄せ』の力なの」
「へえ……。それが、どうしたと? 俺には、アンタが何を言いたいのか、まるで判らないな」
「本当に? ……子供達は深い精神の階層から現実をコントロールするわ。時に利己的に、或いは利他的に」
「で、アンタは俺が、マミに引き寄せられた存在だとでも言いたいのか?」
「ええ。『引き寄せ』の対象が貴方だったのは、母親の深層心理が反映したのでしょうね」
「……くだらない! 実にくだらないね。それが本当だったとして、何の問題もないだろう?
俺とマミの問題だ。俺達が良ければ、それで良いじゃないか!」
「そうね。私もそう思うわ。でもね、マミさんは違っていた」
「どういう事だ?」
「マミさんの『干渉』が無ければ、あなた達が出会っていなければ、貴方は奈津子さんと結ばれていたはず」
「それはないだろう。榊さんが反対しただろうし、俺は『アンタたちの世界』から足を洗いたかったのだから」
「榊さんの反対は、貴方とマミさんが出会ってから出てきた事象に過ぎないわ。
更に言えば、あの娘が貴方を『保護者』ではなく、一人の男性として好きになってからの事象よ。
それに、貴方なら、多分、奈津子さんを連れ出して逃げたでしょうね。この世界に残して行く事は無かったはず。
榊さんも、奈津子さんを連れ去ったのが貴方なら、結局は追認したでしょう。あの人たちは、貴方の事が好きなのよ」


890 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:23:32 id:bz1odVGo0

「全ては仮定の話にすぎないだろ?」
「そうね。でも、マミさんにとってはそうではなかった」
「どういう事だ?」
「あの娘はね、未だに自分の存在に罪悪感を持っているのよ。可哀想にね。
母親の不幸も、貴方に降りかかった生命の危機も、全て自分のせいだと、持たなくても良い罪の意識に苛まれていたの。
そして、奈津子さんに出会って、あの娘の罪の意識は決定的なものになってしまった。。。」
「何故?」
「奈津子さんは、優しくて、本当に良い娘だからね……あの娘は、マミさんにも優しかったわ。
そして、貴方の事が大好きだから。。。あの娘は、自分の感情を隠さない。
見ていて羨ましいくらいに自分の気持ちを真っ直ぐに表現する。……奈津子さんの存在はマミさんを打ちのめしたわ」
「どういうことだ?」
「マミさんは、自分が奈津子さんから貴方を奪ってしまったと、持たなくても良い罪悪感を持ってしまったようね。
そして、貴方を深い眠りから目覚めさせたのが奈津子さんだった事が決定的だったみたい」
「馬鹿な。。。」
「そう、馬鹿よね。あの娘は、貴方を本当に幸せに出来るのは奈津子さんだと思ってしまった。
それだけじゃないわ。
貴方があの娘に注いだ愛情は、自分が捻じ曲げて奪ったものであって、本来は全て奈津子さんのものだった、そんな風に誤解してしまったの。
貴方が奈津子さんの声に反応して目覚めた事で、マミさんの罪悪感は決定的なものになってしまったのよ」


891 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:26:03 id:bz1odVGo0

「馬鹿な。何で、そんな事を。。。」
「そうね。本当に馬鹿よね。……可哀想な子。
悪い事なんて何もしていないのに。
奈津子さんに負けないくらい優しくて良い子なのにね。
あなたや貴方のご家族、イサムくん、他の『子供達』にも愛されているのに……奈津子さんにだって。
傷付き過ぎて、自分が他人に愛される存在だと信じられないのね。
持たなくても良い罪悪感に囚われて、自分の存在を否定してしまった。
自分の存在を消し去りたい、死んでしまいたい、そんな風に思ってしまった。
あの娘は、その願いを、自分の死を引き寄せつつあるわ。
あの子は今、緩やかで苦しい自殺の過程にいるのよ。
もうね、私達には手の施しようがない。
あなただけが頼りなの。
こんなことは頼めた義理ではないけれど、お願い。
あの娘を助けてあげて」


892 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:27:21 id:bz1odVGo0

やがて夜が白み始めた。
未だ寝静まっている邸内から庭に出た。
背後に人の気配を感じ振り返ると、3人の『子供達』が立っていた。
一人とは面識が有った。
マサさんの息子だ。
もう一人は、20歳前後、丁度マミと同じくらいの年恰好の青年だった。
そして、12・3歳くらいの少年。
青年……カズキは一木貴章氏の息子、少年……セイジは一木耀子の孫らしい。
セイジが鋭い視線を向けながら1歩前に出てきた。
拳を握り構えた。浅い右前屈立ち・中段構え。
子供にしては様になっている。気魄は並の大人を軽く凌駕している。
俺は受けに回った。
「行くよ」
セイジが動いた。
中々キレのある動きだ。
セイジは同じコンビネーションを繰り返した。
何度かセイジの攻撃を受けていて、俺は気付いた。
そして、背筋に冷たいものを感じた。
このコンビネーションは、子供の頃、組手が苦手だった俺が李先輩と考えて、繰り返し練習したパターンだった。
まさか、この子は!


893 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:28:43 id:bz1odVGo0

マサさんの息子が例の頭の中に直接響く声で話しかけてきた。
恐ろしい視線と共に。
以前は無かった、青く光る眼光……昔見たデビット・リンチの映画を思い出させる、怪しい光を帯びた不気味な目だった。
『約束だ。マミを助けてあげて。やり方は判っているはずだよ』
「ああ、判っているさ」
何故か、俺はそう答えた。
 
朝食を済ませ身支度を整えると榊家から迎えの車が到着した。
運転手の男が「お迎えに上がりました」と言って、後部座席のドアを開けた。
男を見た瞬間、俺は固まった。
後部座席に乗り込み、車が出て直ぐに俺は運転手の男を問い詰めた。
「星野 慶、何故お前が此処に?」
「驚いたか?無理もないな。お前らに捕まって開放された後、木島さんにスカウトされてな。
今は、榊さんの下で修行しながら、お嬢さんたちの運転手兼ボディーガードを勤めている」
星野 慶は、アリサの実兄だ。
以前、俺は彼に襲われ、殺されかけた事がある。
「逢いたかったよ。その内、逢えるとは思っていたけどね」
「俺もだ。……俺は、お前に詫びなくてはならない。済まない、俺の為にアリサが。。。」
「言うな。俺よりも、お前の方が辛いだろう。それに、アイツの事で俺にお前を責める資格はない。
アイツは、あの時点でああなる事を知っていたのだよ。判っていて選んだんだ。
お前は最初から最後まで、アイツを一人の『女』として扱った。
望み半ばだったとはいえ、惚れた男の為に命を張ったんだ。女冥利に尽きるだろうさ」


894 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:31:13 id:bz1odVGo0

「だから、優、いやアリサの事は引き摺るな。忘れろとは言わない。お前には無理だろうからな。
あのマミって娘、良い子じゃないか。
幸せにしてやれよ。そして、お前もな。月並みな言い方だが、あいつもそれを望んでいると思う」
「……すまない」
「あの娘は、ずっと意識がないままだ。
お前の許を去って此処に来てから、殆ど何も口にしようとしなかったからな。
今は点滴と奈津子の『手当て』で何とか命を繋いでいる状態だ。
『気』を通してやれば何とかなるのだが、全く受け付けないんだ。
意識はないけれど、他人の『気』を体内に受け入れることを強烈に拒絶しているんだよ。
あれは、一種の自殺なんだろうな。
奈津子が頑張っているが、あの娘に何かのスキルがある訳じゃないから、もう限界なんだ。
他の『子供達』にも心を閉ざしたままだ。手詰まりなんだよ」
「慶、お前は『新しい子供達』の事を知っているのか?」
「ああ、知っているよ。
『組織』を離れていたお前は知らなかっただろうが、組織は以前のものではない。
事実上、呪術集団としては終わっている。上層部は既に『呪術』を捨ててしまっているからな。
お前も逢っただろ? 一木家の3人の子供たち。
組織を動かしているのは、あの『子供達』の意思だよ。一木家も榊家も彼らの代弁者に過ぎない。
まあ、組織の人間でも気付いていないヤツの方が多いけれどな」


895 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:33:24 id:bz1odVGo0

やがて、俺達は榊家の『別邸』に着いた。
緑も多く『気』の濃厚な土地だ。
俺には直ぐに判った。
この土地は、榊家の『井戸』に繋がる土地の一つだと。
門を潜ると榊夫妻と奈津子の母親の千津子が俺を迎えた。
病弱で痩せていた千津子は、幾分ふっくらして血色も良く、健康そうだった。
挨拶もそこそこに奥の部屋に入ると、点滴を繋がれたマミがベッドに横たわっていた。
ベッドの横で奈津子がマミの手を握っていた。
「マミちゃん、お兄ちゃんが来てくれたよ」
なっちゃん、ありがとうな」
そう言って、俺は奈津子と位置を交代した。
マミの手を握ってみた。
悲しくなるくらいに細くて小さな手だった。
恐る恐る、痩せた両頬に触れた。
柔らかだったが、生きているのか不安になるほどに冷たかった。
「マミ……」
目を開けてくれ!
だが、眠り続けるマミは、目を離した隙にその細い寝息まで止まってしまいそうだ。


896 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:35:29 id:bz1odVGo0

何故だかは判らないが、この時の俺には何をどうすれば良いのか判っていた。
知らない、知る機会も無かった『知識』が俺の中にあった。
俺はマミの額と胸に手を置き、目を瞑り、目の前の『スクリーン』に彼女を映し出した。
彼女の『気』の滞りが手に取る様に判った。
頭部と心臓に『黒い気』の塊があり、内臓、下腹部の辺りには気が殆ど通っていなかった。
特に子宮周辺の滞りは慢性的なものらしい。
『赤黒い冷たい塊』が深く根を張っていた。
この塊が全身の気の滞りの『核』になっている。
俺は、マミの中に『気』を注入してみた。
予想通り、マミの意識は硬い『殻』の中にあり、殻が弾いて『気』を全く受け付けない。
俺は、マミに『同化』を図った。
イメージの中のマミは、俺に背中を向け、膝を抱えて震えていた。
呼びかけても何も応えない。
ぶつぶつと何かを言っている。
『耳』を澄ませると、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」と、終わらない呪文の様に唱えていた。
空ろで希薄な意識のまま……。
俺は、背中からマミを抱きしめ、マミの言葉に答えるように「許す」と唱え続けた。
「ごめんなさい」と「許す」が交互に続き、シンクロして行く。
しかし、ここから中々進まない。


897 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:38:48 id:bz1odVGo0

どれくらい続けただろう?
既に時間の感覚は無かった。
疲労からか「許す」と唱える俺の意識の方が希薄になり始めていた。
だが、ふと気が付くと大きな変化が生じていた。
「許す」と言う俺の言葉に「本当に?」というマミの言葉が繋がっていた。
「本当に?」と言う言葉に「本当だ」と繋げた。
徐々にイメージの『空間』が軽く、明るくなってきた。
俺は言葉を変えた。
「許して欲しい」と唱えた。
始め、マミからの言葉は返ってこなかった。
だが、唱え続けていると、やがて言葉が返ってきた。
「許している」と。
「ありがとう、マミ。愛しているよ」
この言葉は瞑想状態のまま、実際に口に出していたらしい。
「本当に?」
「本当だ!」
気の流入を拒んでいた、マミの『殻』は消えた。
マミの中に俺の『気』が入って行く。
枯渇状態だったマミの中に『気』が吸い込まれて行った。
やがて俺は限界に達し、意識を失った。


898 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:39:53 id:bz1odVGo0

丸一日眠り続けて、俺は意識を取り戻した。
全身が鉛のように重く、体の節々が軋んだ。
俺は床から出て、マミの部屋に行った。
相変わらず意識は戻らず、眠り続けたままだ。
しかし、その肌には血色が戻り、冷たかった手や頬に体温が戻っていた。
ほっとしてマミの傍から立ち上がろうとしたら、立ち眩みがした。
マミに付き添っていた奈津子が俺の体を支えた。
だが、小柄で華奢な奈津子は俺を支えきれず、そのまま縺れ合うように、俺達は床に倒れこんだ。
起き上がろうとすると奈津子が抱きついてきた。
俺を抱える腕に力が篭る。
すると、俺の体から力が抜け、痛みや全身を覆っていたダルさが抜けていった。
『気』を注ぎ込むのではなく、苦痛を抜き取る、そんな感じだ。
これが奈津子の『力』なのか?
奈津子は、マミが倒れてから俺がここに来るまでの間、この『力』で一人、マミの命を支え続けていたのだ。


899 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:42:21 id:bz1odVGo0

「ありがとう、なっちゃん。もう大丈夫だ」
「そう?……でも、もう少し、このままでいさせて」
暫く、無言のまま、俺は奈津子に身を任せていた。
やがて奈津子が口を開いた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんは、私の事好き?」
「好きだよ」
「うれしい。私も、大好きだよ。でもね、私、知っているんだ」
「何を?」
「……お兄ちゃんの私への好きは、マミちゃんへの好きとは違うってこと」
奈津子は泣き始めていた。
「私のお兄ちゃんへの好きは、お兄ちゃんのお嫁さんになって、赤ちゃんを産みたい、そういう好き。
マミちゃんと同じ好き。。。」
奈津子は本格的に泣き始めた。
堪らなくなって、俺は奈津子を強く抱きしめた。
「ごめんな。。。」
「謝らないで。。。
みんな私に優しくしてくれる。お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、お母さんも。大家のオバちゃんも、アパートの人たちも。
耀子さんや琉華さんも、慶ちゃんやカズ君、セイちゃんも……お兄ちゃんとは違う好きだけど、みんな大好きなの」
「そうか」
「うん。マミちゃんにも好きな人や優しくしてくれる人達はいるけれど。。。
マミちゃんの好きな人達は、みんな、お兄ちゃんを通して繋がっているの。
お兄ちゃんがいないと、マミちゃんは一人ぼっち。だから、私、我慢する。
私、マミちゃんよりも、お姉さんだから。マミちゃんのことも好きだから我慢する。えらいでしょ?」 
「ああ、ごめんな」


900 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:45:53 id:bz1odVGo0

「謝らないで、……褒めて欲しいな。頭を撫でて欲しいな」
俺は、奈津子が泣き止むまで、細くて柔らかい髪を撫で続けた。
やがて泣き止んだ奈津子は、腫れた目で俺の顔をじっと見つめ出した。
見つめ返すと、奈津子は目を閉じて唇を尖らせた。
「ご褒美!」
少し迷って、俺は奈津子の額にキスした。
「ううぅ、ちょっと違う! でも、まあ、いいか。マミちゃんに怒られちゃうものね!」
 
マミの『治療』は難航した。
他の治療師や榊氏たちが『気』の注入を試みたが、マミは俺の『気』以外、相変わらず受け付けようとしなかった。
俺を『通路』にして、榊家の『井戸』から『気』を導入してみたが、結果は芳しくなかった。
しかし、俺の能力不足で、自前で回した俺の気や気力では全く足りない。
方法は合っている筈なのだ。
少々無理をして『気』を引き出し続けたために、俺の体調は急速に悪化して行った。
榊夫妻が「もう止めろ」と言ったが、止める訳にはいかなかった。
慶が俺をフォローしたが、慶の疲労の色も濃くなって行った。


901 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:48:38 id:bz1odVGo0

もう駄目なのか?
俺には無理なのか?
悔しさや悲しさ、無力感や倦怠感に囚われていた。
いっそ、このままマミと。。。
明らかに『気』の欠乏状態が精神に影響を及ぼし始めていた。
症状が進行すれば、やがて自殺願望が出てきて、突発的な自殺行動に出る可能性もある。
限界だ。
だが、此処で投げ出せばマミは助からないだろう。
もう少し、あと一歩なのだ。
続けるしかない。
しかし、気力の果てた俺が足掻いたところで効果など上がる訳もなく、とうとう俺は倒れてしまった。
起き上がることも出来ない。
俺は何て無力なんだ!悔しい、ただそれだけだった。
 
マミの治療を開始してから、俺は毎晩同じ夢を見ていた。
深い森の奥に立つ一本の巨木。
間違いなく、この森の『ヌシ』だろう。
そして、樹の纏う神々しさ。
この樹は『神木』の類なのかも知れない。
ただ、固定観念の成せる業だったのだろう。
俺は、この夢をただの『夢』としか捉えていなかった。


902 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:50:31 id:bz1odVGo0

だが、その晩は違っていた。
疲労困憊していた俺は、夢と現実の判断を完全に失っていた。
目の前の『神木』を実体を持った存在と認識していた。
俺は、目の前の樹に対して『同化の行』を行った。
樹から夥しい量の『気』が流れ込んでくる。
大量の『気』と共に、俺は嗅いだ事のない花、或いは香のような匂いを感じていた。
嗅いだことのない匂い?
いや、あるのか?
やがて俺は目覚めた。
俺の全身には、信じられないほどに『気』が漲っていた。
俺はつまらない固定観念から、やり方を少し間違えていたようだ。
全ては始めから用意されていたのだ。
俺は夢の中の『神木』と繋がっていた。
神木から引いた『気』を体内で一回ししてからマミに注いでみた。
上手く行く。確信があった。
予想通り、マミの中に大量の『気』が入って行くのが判る。
30分ほど気の注入を行い、俺はマミから離れた。
終わった。
慶に礼を言い、瞑想に入った。
瞑想を通じて、榊家の森と夢の中で見た『神木』に礼を述べた。
瞑想から覚めたところで榊婦人が俺を呼びに来た。
「マミさんが目を覚ましたわ!」


903 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:52:43 id:bz1odVGo0

「おはよう、マミ」
「XXさん、何で此処に?わたし、まだ夢を見ているのかな?夢なら覚めないでほしいな」
俺はマミの頬を片方、指で摘んだ。
「痛い!」
「もう片方も行っておくか?」
「やめて下さい。もう、せっかく感動してるのに、ぶちこわしじゃないですか!」
「ごめん」
「謝らないで下さい。わたし、嬉しいんですから。もう二度と会えないと思っていたから。。。」
マミは泣き始めた。
泣き止むと、マミは話し始めた。
「ずっと、怖い夢を見ていました。暗くて寒い所にずっと一人ぼっちで。。。淋しくて、苦しくて。
死ぬって、こういう事なのかなって。。。」
「そうか」
「でも、XXさんの匂いがしたんです。懐かしい、大好きな匂いが。そうしたら、だんだん暖かくなってきて。。。」
「そうか……もう、何も言うな」
俺は、マミを抱きしめた。
最初は恐る恐る。そして、少し力を強めて。


904 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:55:48 id:bz1odVGo0

どれくらいそうしていただろうか?
マミが口を開いた。
「XXさん、私、おなかが空いちゃった」
「俺もだ。何か、食べたいものはあるか?」
「XXさんの焼いたアップルパイ! シナモンは抜いて」
「そんなのはお安い御用だけど、さすがに今は無理じゃないかな?」
「そう? それじゃ、ミルクティーでいいや。うんと甘くして。
……ラーナさんが入れてくれたのは美味しかったよね。シナモンは余計だったけど」
 
「……マミ、早く元気になって家に帰らないとな。みんな待っているぞ?」
「私、もう帰れない」
「何で?」
「私、久子さんに嫌われちゃった。大好きな久子さんに……合わせる顔なんて無いよ!」
「そんな事ないって」
「XXさんは、知ってる?
……私は、お母さんに聞いたのだけど。。。
久子さん、素子さんが結婚した時に、お父さんに言ったんだって」
「何を?」
「久子さん、……一生、誰とも結婚しない。子供も産まないって」
「そうか……。昔、嫌な事件があったんだ。アイツはそれ以来、男性恐怖症気味だから……仕方ないな」


905 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 04:58:14 id:bz1odVGo0

「XXさん、違う。そんなんじゃないよ?」
「違う?」
「そう、違うの!
……XXさんが意識を失って、目を覚まさなくなったとき、一番取り乱していたのは久子さんだったの。
泣きながら言われたわ。
なんで、XXさんを信じて待っていなかったの、何でXXさんの事を受け止めてあげなかったのって。。。
わたしがあなただったなら、わたしがあなただったならって、何度も言いながら、あの久子さんが泣いていたのよ。
私、鈍いから、それで始めて気付いたわ。
そんな久子さんが、私のことを認めてくれたのに、XXさんのことを任せてくれたのに、私は。。。」
俺は、何を言えば良いか判らなくなっていた。
更に、マミは続けた。
「……それに、私はXXさんとは一緒にいられない。そんな資格はないの」
「何で?」
「みんながXXさんを助けようと頑張っている時に、私、酷い事を……とっても酷いことを考えていたの」
「何を?」
「このまま、XXさんが目を覚まさなければいい。
私のものにならないなら、いっそ死んでしまえばなんて……ごめんなさい。許してなんて、言えないよね」
「……何故?」
「だって、敵わないもの。
私、ほのかさんや香織さんみたいにキレイじゃないし、藍さんみたいに頭も良くないし、ジョンエさんみたいに優しくもない。
祐子先生みたいに強くもなれない。……奈津子さんを差し置いて、XXさんに選ばれる理由なんて思いつかないもの」


906 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:01:11 id:bz1odVGo0

「そんなことはないよ。
確かに、ほのかや香織はちょっと居ないレベルだけど、マミだってキレイで可愛いぞ?
ホモか余程の変人でもない限り、男ならお前に好きだと言われたら、10人中9人は舞い上がるだろうさ。
マミは、ジョンエみたいに誰にでも優しい訳ではないかもしれないけれど、俺や周りの人たちには十分過ぎるほど優しいじゃないか。
それに、俺だって藍みたいに頭は良くないし、祐子みたいに強くも無い。
……馬鹿で同じ失敗を何度も繰り返しているし、お前と同じくらいに、いや、お前以上に弱い。
恐怖に負けずに、お前と一緒に居る強さがあれば、お前に全て打ち明ける勇気があれば、お前をここまで傷つける事は無かった。
ごめんな。……俺が弱かったばかりに」
「……奈津子さんの事は? 私、XXさんの事は大好きだけど、奈津子さんほど強く想えているのかは判らない」
「そんなことは、誰にもわからない。人間の感情を数値化して比較することなんて出来ないのだから。
奈津子は確かに良い娘だよ。人の姿をしているけど、本当は天使か何かなんじゃないかって位にな。
でも、俺はお前を選んだ。
ただ、それだけだ。理由なんて無いよ」
「ごめんなさい……」
「謝る事なんてない。
俺だって、同じような状況だったら、同じようなことを考えるかもしれないからな。
マミが誰かのものになりそうなら……マミを誰にも渡したくないから。
独占欲ってヤツなのかな? 俺はむしろ、マミに其処まで思ってもらえて嬉しいぞ?」


907 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:04:06 id:bz1odVGo0

「以前、お前に言ったはずだ。
俺はもう、好きな女を失ったら、お前を失ったら耐えられそうに無いって。
昔、俺の先輩……お前の伯父さんが言っていたよ。
どんな理由があっても、どんな形であっても人殺しは許さないってな。
人殺しは最も重大な罪だからな。その中でも、自殺は特に罪深いと思うぞ?
ただの人殺しなら、残された者は殺した者に対する怒りや憎しみ、復讐心に縋って生きることも出来るだろう。
殺した者にも、贖罪の道が残されている。
でも、自殺は、残された者に悲しみしか残さない。贖罪の道も最初から絶たれてしまっている。
前に、お前が手首を切ったときに言ったはずだ。
お前が自分自身を傷付ける事は、俺や父さん、母さんや久子を傷つけることに等しいって。
死にたくなったら、先に俺を殺して、もう一度考えてからにしろって。
お前が何をしたとしても、俺は許せると思う。時間が掛かったとしても、いつかは。
生きてさえいてくれたらな。
お前に去られたとしても、耐えてみせよう。
でも、自分を傷付けるのは、自殺だけは止めてくれ。
お前は、俺にとっては誰よりも大切な存在なんだ。その存在を、おまえ自身が否定するのは止めてくれ。
……俺は、それに耐えられるほど強くはないんだ。いっそ、お前に殺された方がマシだよ」


908 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:06:56 id:bz1odVGo0

……こんな事じゃなかった。
俺がマミに本当に言いたいのは、こんな事じゃなかった。
もっとシンプルな、何度も、何度も、毎日繰り返していた言葉じゃないか!
何故言えない?
言え!
臆病者め!
同じ過ちを何度繰り返せば気が済むのだ!
考えるな!
さっさと言ってしまえ!
愚図、鈍間、低脳、ヘタレ!
俺は、自分の弱さ、勇気の無さに呆れ果てていた。
自分自身に嫌気が差す。
こんなヤツではマミも愛想を尽かすだろう。
もう、どうにでもなれ!


909 :回帰4 夢の樹に繋げば ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/31(金) 05:08:55 id:bz1odVGo0

「マミ」
「はい?」
「俺は、お前を……愛しているんだ。今でも。そして、これからも」
言っちまった。
……しかし、マミは何も応えてくれない。
俯いたままだ。
マミの肩が震えている。泣いているのか?
「……ごめん」
「何で謝るんですか?
わたし、嬉しいんですよ!もう二度と言っては貰えないと諦めていたから」
「……俺も、もう二度と言えないかと思っていたよ」
「私も愛してます。だから、もっと言ってください!」
そのままマミは、ずっと泣き続けた。
良くもここまで涙が続くものだと呆れるくらいに。
だが、この泣き顔も俺にとっては愛しい表情の一つだ。
「ごめんなさい、私、こんなに泣き虫じゃなかったはずなのに。。。」
「いや、マミは前から泣き虫だったよ」
「泣き虫は嫌いですか?」
「いや?泣き虫なマミも可愛いよ。愛してるよ、マミ!」
やっと泣き止んだマミがまた泣き出した。
  
  
つづく

 

回帰3 鬼哭

860 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:46:28 id:XU1AEzQY0

移動中の車の中で、俺は『あの日』の事を思い出していた。 

12月21日の朝だった。
朝7時。
PCの電源を落したばかりの俺の部屋のドアがノックされた。
「XXさん、いますか?」
「いるよ。おはよう、マミ」
「昨夜は遅かったの?」
「ああ。よく寝ていたから起こしたら悪いと思ってね」
「目、真っ赤ですよ?寝ていないんですか?」
「ああ……寝そびれてしまって」
「そう……」
マミはゆっくりと俺に近づいてきて、一瞬躊躇したかのように止まると、抱きついてきた。
細い肩だ。
思いに任せて力いっぱい抱きしめたら壊してしまいそうだ。
「嘘つき……」
俺の腕の中でマミは肩を震わせていた。……泣いているのか?
「どうした、何があった?」
「知っていましたか?私、XXさんと一緒じゃないと眠れないんですよ?
愛してるって言ってもらって、キスしてもらって、XXさんが先に眠りに就くのを見届けないと眠れないんです」
「……何で?」
「怖いんです。朝、起きたら、XXさんが居なくなっているんじゃないかって。
目が覚めたら、あなたと出会ってからの日々が全て夢で、あの団地のあの部屋にいるんじゃないかって……怖いんです!」


861 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:48:06 id:XU1AEzQY0

「俺が、マミの前から居なくなる訳が無いだろ?馬鹿だな」……胸が苦しかった。
「本当ですか?XXさんは、私に何か隠しています……馬鹿だけど、それくらい、私にだってわかりますよ!
……大事なことは何も、教えてはくれないんですね。。。」……もう耐えられなかった。
何を言おうとしても、まともに言葉にできる自信がない。
俺はマミを強く抱き締め、長い、とても長いキスをした。
このまま時間が止まればいい。
もっと時間が、マミと過ごす時間が欲しかった。
だが、時を司る神は残酷だ。
俺は既に時を使い果たしてしまっていた。
時が与えられないのなら、このまま世界が滅んでしまってもいい。
唇を離すとマミが言った。
「XXさん、何で泣いているんですか?」
迂闊にも、俺はいつの間にか涙を流していた。
「……何でかな?俺にも判らないよ。でも、お前以上に『大事なこと』は、俺には無いよ。
俺は、いつもお前の傍にいて、お前を愛してる。それだけは、何があっても本当だ」
「私もです。……私は、何があってもXXさんの傍にいます。愛してます」
……お互いに何百回も『愛している』と囁き、口づけを交わしたが、俺達の間には本来有るべき確かな証がなかった。
紙一枚の法律的なものではない。……そんなものは大した問題ではない。婚姻届など、いつでも出せたのだ。
俺の身体的な問題もあったが、マミの抱えた深いトラウマを俺は恐れていた。
落ち着いては見えるが、マミの心の傷は出血が止まっただけで、今なお生々しく、深く抉られたままだ。


862 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:50:03 id:XU1AEzQY0

俺はマミの笑顔が好きだった。彼女の笑顔の為なら全てを捨てても惜しくはない。
泣き顔も好きだ。そして、泣き虫な彼女が泣き止んだ時に見せてくれる、涙混じりの笑顔はたまらなく可愛いかった。
怒ったときの膨れっ面も好きだった。彼女を宥め、機嫌を取ることも、俺にとっては楽しいひと時だった。
彼女の喜怒哀楽全ての表情が俺にとっては宝石だった。
だが、マミの恐怖に歪んだ顔は見たくなかった。
初めて出会った頃の、『どうなってもいい』と全てを諦め、涙を流すことも出来ない絶望した顔は二度と見たくなかった。
感情の消えた、凍りついた死人のような目を二度とさせたくなかった。
だが、触れ方を間違えれば、深く刻まれたマミの心の傷は血を流し、彼女は再び心を閉ざしてしまうだろう。
俺以上にマミは恐れていたはずだ。
傷つけられ、心を切り刻まれた者のフラッシュバックの恐怖は、他人には計り知れない。
一部の例外を除いて、マミにとって『男』とは、未だに恐怖の対象でしかないのだ。
『24日の夜は二人きりで過ごし、翌朝、婚姻届を出しに行く』と言う約束は、彼女にとっては決死の覚悟だったのだ。 
マミは、俺を信じて心を開いてくれた。
多くの人々に彼女が救われたように、俺もまた彼女に救われたのだ。彼女の想いに報いたかった。
だが、俺が彼女との約束を果たせる可能性は低い。
しかも、これから俺が行おうとしていることは、彼女にとって恐怖と嫌悪の対象である『暴力』と大差ない。
彼女に事実を話すことはできなかった。
午前10時、身支度を整えた俺は、誰にも、何も告げずに家を出た。


863 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:52:09 id:XU1AEzQY0

待ち合わせの場所に迎えの車が来ていた。
タバコを咥えた朴が車外で俺を待っていた。
「来たか……」
「ああ。待たせたな」
「……では、行こうか」
俺たちは、後部座席に乗り込んだ。
道中、車内の沈黙を破って朴が口を開いた。
「何故、来たんだ? 逃げてしまえばよかったんだよ、除のようにな」
「ケジメだよ。 俺一人なら、それも悪くない選択肢だけどな」
「そうか……。 なあ、拝み屋。拝み屋を辞めたいなら、辞めればいいさ。
でも、『会社』まで辞める必要は無いじゃないか。 俺が社長に掛け合ってやるから、もう一度、一緒に遣らないか?」
「悪いな。 もう決めたことなんだ。俺は脚を洗うよ、キッパリとな」
「……そうか、判った。 もう、何も言うまい。 今夜は、全力で掛からせてもらうよ」
「ああ、そうしてくれ。 そうでないと意味がないんだ」
これから12時間後、俺はキムさんが選んだ10人の男達と戦う事になっていた。
朴もその中の一人なのだろう。
恐らく文も。
俺の腕では朴に勝てる可能性は低い。
普段の稽古なら3回戦って、1回勝てれば良い、そんな所だ。
文に至っては、どう戦えば良いか見当も付かなかった。
文や朴以外も、出てくるのは猛者揃いのあの道場の中でも選びぬかれた男達だろう。
まともに戦っても、勝ち目は薄い。
1人目で終わる可能性も低くは無い。
普通に考えて、逃げるのが一番の得策なのだろう。
だが、それが出来ない理由が俺には有った。


864 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:53:20 id:XU1AEzQY0

キムさんから、場所と日取りの連絡が来た直後の事だった。
風呂上りに洗面台の鏡を見た俺は、その場に凍りついた。
鏡に映っていたのは、異様な『何か』だった。
死体のような?どす黒い肌をした『それ』は、赤く光る目で俺を睨み付けていた。
怯んで後ずさった次の瞬間、鏡に映っていたのは普通の俺の姿だった。
……あれは、何だったのだ?
鏡に映る、不気味な『何か』を見た晩から、俺は毎晩、同じ悪夢に魘されるようになった。
見覚えのある、古く薄汚れた部屋。
マミとユファが住んでいた、団地の部屋だ。
耐え難い悪臭が漂っていた。 ……この臭いは、屍臭だ。
部屋の奥に誰かがいる。
中に進むと、あの不気味な何かが、誰かを組み敷いて犯していた。
……マミだった。
激昂した俺は、マミから引き離そうと、ヤツの髪を掴んで引っ張った。
引っ張った髪は、大した手応えも無く頭皮ごとズルリと抜け落ちた。
凍り付く俺に、両眼から赤い光を放ちながらソレは襲い掛かってきた。
俺は喉笛に喰い付かれ、噛み砕かれた。
激痛とゴボゴボという呼吸音を聞きながら俺の意識は薄れていった。
次に気付いた時、俺は誰かを組み敷いて、その首を絞めていた。
マミだ。
マミは既に息絶えていた。
正気に戻った俺は絶叫した。
そして、絶叫した瞬間に俺は目覚めていた。


865 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:55:07 id:XU1AEzQY0

それは、現実と区別が付かないほどリアルな夢だった。
いや、果たして夢だったのか?
俺の両手には、マミの首を締めた生々しい感覚が残っていた。
隣で眠るマミの寝息を確認して、俺は初めて、それまで見たものが夢だった事に胸を撫で下ろした。
そして、悟った。
あの不気味な何か、マミを組み敷いていた『あれ』は、俺自身であると。
 
マミの卒業パーティーの日、俺はマミに俺とPの過去と一木耀子の霊視による『定められた日』のことを話してはいた。
だが、マミにとってはくだらない迷信、ただの与太話にしか過ぎなかっただろう。
無理もない。
通常の世界に生きてきた者であれば、それが当然の反応だ。
俺自身が、近付きつつあるという自分自身の死期も、『定められた日』とやらも、どこか本気に捉えていない部分があった。
……この期に及んで、信じたくなかったのだ。
マミとこれまで通りの暮らしを続けながらやり過ごしたい、やり過ごせると信じたがっていたのだ。
だが、そんな甘い夢は、脆くも崩れ去った。
自分自身の死もだが、いつか正気を失いマミを手に掛けてしまうのではないか、それが恐ろしかった。


866 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:57:42 id:XU1AEzQY0

そんな俺にイサムの姉の香織がコンタクトを取ってきた。
霊能者・天見 琉華の使いということだった。
ある行法を伝える為だった。
もたらされた『行法』自体は、ごく単純だった。
ただひたすらに、声に出さず頭の中で『真言』を唱え続けるだけの行だ。
単純だが困難な行だった。
真言』は常に唱え続けなければならない。
あらゆる場面で、飯を食っているときも、寝ている時も、人と会話している時もだ。
これは、やってみれば判ると思うが、非常に苦しい。
気を確かに持たないと精神に変調を来しかねない。
実際、俺の精神は何処か壊れてしまっていたのかもしれない。
だが、『行』が安定するに従って、徐々に悪夢は見なくなっていった。
やがて、『ヤマ』を超えると、苦痛も消えて無くなった。
意識しなくても、勝手に『心』が真言を唱えているようになった。
そして、俺の精神は『独り言』を止め、意識的に思考しなければ真言の詠唱以外、何も考えなくなっていった。
それが『儀式』の前提条件だった。
このような形を選び、決行日を俺の死期として予告された『定められた日』に合わせてくれたのは、キムさんの厚意だったのだろう。
正体の判らない『死』に怯えるよりは、目の前の『敵』と戦う方が余程いい。
今夜がその仕上げだ。


867 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 05:59:23 id:XU1AEzQY0

やがて、車は通い慣れた道場に到着した。
キムさんのボディーガードの3人組、文・朴・徐が修行した道場であり、権さんに命じられて徐とタイマンを張った場所でもある。
徐に誘われる形で俺も通い、稽古を重ねた場所だ。ここでイサムとも出会った。
開始まで、まだ大分時間があるので、俺は事務室のソファーで横になった。
『……結局、与えられたチャンスとやらは活かすことはできなかったな』
マサさんの息子……いや、『新しい子供達』が示した、俺が怨みや怒りを捨てたことを示す言葉……
唱えれば、新しく全てが始まるという『あの言葉』とやらに、俺は辿り着くことが出来なかった。
琉華によってもたらされた『行』の効果にも期待はしていなかった。
ならばこそ、出来る事だけに全力を注ぐ。
目の前の敵と戦うのみだ。
勝目は薄いが、全ての『敵』を打ち倒して、真の『自由』を手に入れてやる。
父と約束したように、最後まで足掻き抜いてやる。
そして、帰るのだ。
マミと家族の待つ家に。
俺は、考える事を止め、頭の中に響く『真言』だけを聞いていた。


868 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:01:04 id:XU1AEzQY0

時間が来た。
道着に着替えて地下の道場に下りると、キムさん達が既に待っていた。
キムさんと師範。権さんもいる。
文と朴、その他7名の有段者たち。
どの面々も曲者揃いだ。
文が若い男に声をかけた。
「安東はどうした?」
……イサムもメンバーだったのか!
だが、イサムが姿を現さなかったのは、俺にとっては好都合だった。
俺が居なくなったあと、マミのことを託せるのはイサムしかいなかった。
マサさんの井戸の中に入っていた『箱』に触れ、動かすことのできなかったPにマミを委せることはできない。
俺の杞憂であれば良いのだが……ヤスさんのいた工務店の社員たちのように、『箱』がPと彼の周りの人々の命を奪うかもしれない。
マミに危害の及ぶ可能性は、どんな些細なものであっても見逃すことはできなかった。
奈津子を俺から遠ざけた榊夫妻の気持ちが俺には痛いほど理解できた。
それに、まだ強烈に男性恐怖が残っているマミにとって、イサムは心を許せる数少ない男の一人だった。
俺と俺の父、義兄以外では、ほぼ唯一と言える存在だ。
そして、口にこそ出さないが、イサムがマミに単なる好意以上の感情を持っているのも確かだった。
姉の香織以外、女性に対する猜疑心や嫌悪感の強いイサムには、自分の感情の意味は未だ理解できてはいない様子だったが。


869 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:03:12 id:XU1AEzQY0

文に問われた男が答えた。
「判りません。逃げたんじゃないですか?……別に来なくても構いませんよ、あんな奴。
それに、先輩方の出番もありません。俺で終わりますから」
一人目はコイツか。
一人目の男、具(ク)は、凶暴な男だ。
組手のスタイルも荒い。
誰彼構わずに勢いに任せた戦い方をするので、一般道場生との組手を禁止されていた。
キムさんの「そろそろ始めようか?」という声で『儀式』は始まった。
「お互いに、礼!」
……俺は、一人目の勝負、勝利を確信した。
文や朴は別にして、こいつらはこの勝負の本質を理解していない。
具は、勢いに任せて一気に相手を攻め落とす戦い方を得意としていた。
勢いに飲まれると秒殺されかねない危険な相手だ。
だが他方で、攻撃は直線的で、力みから予備動作が大きく、技の出処を読むのは容易かった。
強烈な『殺意』は感じたが、戦い方も通常の『空手』のルールから逸脱したところはない。
暫く俺は受けに徹して、具の『空手』に付き合った。
具に攻め疲れが見えたところで、俺は当初から立てていた作戦通りの行動に出た。
俺は、苛立ちから無理な体勢で大技を出してきた具を捉えた。
そして、彼の頭を引き込みながら、顔面に頭突きを見舞った。
2発・3発……更に見舞う。
具の顔面が鮮血に染まり、道場の床に血溜りが出来た。
具が俺の手を切って逃げようとした瞬間、俺は彼の金的に蹴りを見舞った。
具は、悶絶して床に崩れ落ちた。
俺は、具の頭部を足底で踏み潰し、床に叩きつけた。
彼の顔面が道場の床に激突して鈍い音をたてる。
更に、踵で彼の頭部を蹴り抜いた。2発、3発……。


870 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:05:43 id:XU1AEzQY0

「や、止めろ!」
審判役の男が慌てて俺にしがみついて、具に対する俺の攻撃を止めさせた。
具の意識はなく、大きな『鼾』をかきながら、ピクリとも動かない。
凄惨な光景だった。
道場内は騒然となった。
文と朴、その他2名のベテラン以外の若手4人は殺気立って俺に詰め寄ってきた。
「反則だ!それに、具は試合続行不可能だった。ここまでする必要はなかったはずだ!」
俺は挑発目的で、わざとニヤリと笑いながら言った。
「こいつは『参った』とは言っていなかったからな。ならば、攻撃は続けないと。
当人が『参った』と言えるかどうかは問題じゃない」
「ふざけるな、この野郎!」
乱闘でも始まりそうな騒ぎだ。
しかし、師範の「黙らんか!」と言う大音声で道場内には静寂が戻った。
「ですが……、これは明らかに反則です!」
「問題ない。私はお前たちに彼を『殺す気で潰せ』とは言ったが、『空手の試合』をしろとは言っていない。
お前たちが殺す気で掛かる以上、彼もお前たちを殺す気で掛かってくるのは当然だろう?
そんな簡単なことも判らない様では、キム社長に推薦することはできないな。使い物にならない」
文や朴、その他2名のベテランは別にして、若手のこいつらは、俺と徐の後釜としてキムさんと契約する事を餌に参加させられたらしい。
足抜けする俺に『ヤキ』を入れるくらいの認識でこの『10人組手』に参加したのだろう。
命のやり取りをする覚悟など初めからない。
今更知ったところで覚悟など決められるものでもない。
普段は剛の者として鳴らしている彼らも浮き足立っていた。
事前に立てていた作戦通りだ。
重傷を負い意識のないまま運ばれていった具の惨状を目の当たりにして、彼らの動きは硬かった。
普段ならばそんなことは有り得ないのだろうが、『参った』が連続した。
消耗しながらも、俺は大きなダメージもなく5人目までをクリアすることができた。


871 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:09:23 id:XU1AEzQY0

前半を終え、水を入れていると、権さんが俺に話しかけてきた。
「腕を上げたようだな。技が身についている。
徐とやった時とは大違いだ。相当な稽古を積んだのだろう。
連中は完全にお前の術中に嵌っていた。
駆け引きも戦略も冷静だ。修羅場を潜ってきただけのことはある、大したものだよ。
だが、魅力が無くなった……俺は、お前の何を仕出かすか判らない『狂気』を買っていたのだけどな。
姜種憲……ジュリーのガードをした頃の自分を思い出せ。
あの頃のお前は、ジュリー以上の『悪鬼』だったぞ?
まだまだだ。もっと、本性を曝け出せ……お前の中の『鬼』とやらを解放して見せろ。
次の相手は久保だ……小細工は通用しない。
全てを出さなければ、お前、殺されるぞ?」
『何を言っているんだ?』
だが、権さんの助言は的を射ていた。
 
6人目の男、久保は、事前の印象では、何故この場にいるのか不思議な男だった。
見た目は、小太りでやや小柄な体躯。
柔和なイメージで少年部や女性部の指導補助を務めており、子供や父兄からの信頼や人気が高かった。
一般の会社員として定職を持ち、正式な指導員ですらない。
こんな戦いに参加する意味は、彼にはないはずだった。
だが、この男の内包している『狂気』は凄まじかった。
使う技も狙う位置も、致命傷狙いのモノばかりだ。
そう言った『使えない技』で久保の戦い方は組み立てられていた。
具の後に戦った4人のような苦し紛れのものではない。
何万回と繰り返されたであろう『身に付いた』動きだ。


872 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:13:14 id:XU1AEzQY0

久保は、殺意の塊のような男だった。
何がどうなれば人は内面にこれほどの『狂気』を内包できるのだろうか?
俺が久保を倒せたのは、全く偶然の成り行きだった。
もつれあって倒れるときに、咄嗟に久保の喉に肘を当て、全体重をかけて倒れ込むことに成功したのだ。
恐慌状態の俺は馬乗りになって、久保の顔面を殴り続けた。
 
戦っている間、打たれても打たれても、薄ら笑いを浮かべながら前に出てくる久保の狂気に、俺は恐怖を感じていた。
だが同時に、体の内側から湧き上がってくる何かを感じていた。
脳内麻薬にでも酔っていたのだろうか、戦うことに強烈な快楽を感じ始めていた。
強烈なテンションに突き動かされて、技を振るうことが楽しくて仕方がない。
俺の頭の中には、例の『真言』が大音声で鳴り響き、何も考えられなくなっていた。
久保の『狂気』が乗り移ったのか、俺は完全に『狂気』に支配されていた。
7人目の男、岡野とはどう戦ったのかさえ覚えていない。
気がついたら岡野は床に横たわり、動かなくなっていた。
ただ、強烈な殺意と憎悪に突き動かされ、力の限り蹴りを放ち、突きを出していただけだった。
前半のように、スタミナの温存を計算に入れた、『受け』に重点を置いて組み立てた戦い方ではなかった。
息が完全に上がっていた。
ダメージも蓄積している。
だが、苦痛は全く感じていなかった。
痛みさえ甘く心地よい、そんな感覚だ。
休憩を取る間も惜しんで、俺は次の相手を求めた。
「次だ!次の相手を出せ!」
自分の中にあった『何か』を解放し、異様なテンションに飲み込まれていた俺は、権さんの言うところの『悪鬼』だったのだろう。
憎悪と殺意の塊となって正常な判断力を完全に失っていた。
8人目の相手は、いつ来たのかは判らないが、イサムだった。
誰でも構わない。
全力の殺意と憎悪をぶつけたい、湧き上がってくる『力』を振るいたい、ただそれだけだった。


873 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:15:47 id:XU1AEzQY0

イサムと本気で手合わせしたのは、この時が初めてだった。
一緒にロングツーリングに出かけたとき、俺は計画していた。
適当なところでイサムを打ち倒して逃亡を図ろうと。
だが、計画を実行しても、恐らくは失敗に終わっただろう。
意外だった。
強い。
今日、ここまで相手にした男たちの中では最強だ。
俺の攻撃が当たらない。
僅か数センチのもどかしい距離で全て躱されてしまう。
躱すとともに放たれる蹴りが強烈だ。
長い脚がしなるように叩き込まれてくる。
追ってもフットワークの速さが俺よりも1枚も2枚も上手だ。
……この戦い方は、権さんか?
俺は戦い方を変えた。
再び、『受け』に重点を置いた『待ち』の戦い方に戦法をシフトした。
ロングレンジで軸足をスライドさせながら、踵で蹴り込んでくるサイドキックが厄介だ。
被弾を覚悟して肘を落とす。
鞭のようなイサムの蹴りが襲ってくる。
蹴りをカットし続けた脛に激痛が走る。
だが、足にダメージが溜まり、焦りが出たのだろうか、イサムの蹴りが上段に集中しだした。
そして、チャンスが到来した。
俺はイサムの後ろ回し蹴りをキャッチすることに成功した。
すかさず軸足に足刀を叩き込んだ。理想的な角度で膝に蹴りが入った。
イサムの膝は確実に破壊されただろう。
倒れたイサムが膝を庇おうとするよりも早く、俺は踵でイサムの破壊された膝を踏み抜いた。
イサムが苦痛の悲鳴を上げた。
更に俺は踵で倒れたイサムを蹴り付ける。
膝を、腹を、顔面を……これまでのフラストレーションをすべて開放するように。


874 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:18:12 id:XU1AEzQY0

血まみれのイサムは動かない。
トドメだ。俺はイサムの右腕を引き、彼の頭を床から浮かせた。
このまま足底で頭部を踏み抜き、床に叩きつければ終わりだ。
ゾクゾクするような歓喜
俺は蹴り足の膝を引きつけようとした。
その瞬間、冷水をかけるような女の悲鳴が道場内に響いた。
「もう止めて!」
声のした方向へ俺は視線を向けた。
マミだ……なぜ、彼女がここに?
先程まであれほど昂っていたテンションが一気に冷め、俺の全身から力が抜けていった。
イサムの体が床の上で音を立てた。
……見られてしまった。
マミに、一番見せたくなかった俺の姿を。
三瀬や迫田に痛め付けられ続けたマミにとって、『暴力』は強烈なトラウマだ。
そんなマミに暴力の快楽に身を任せた悪鬼の姿……醜い俺の本当の姿を見られてしまった。
「……マミ」


875 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:20:24 id:XU1AEzQY0

頭の中に大音声で鳴り響いていた『真言』は停まっていた。
同時に、それまで気にも留めていなかった疲労とダメージが一気に噴き出していた。
重い足をマミに向けた。
次の瞬間、俺は絶望の底に叩き落とされた。
「来ないで!」
涙を流し、恐怖の表情を張り付かせたまま、マミは悲鳴を上げて俺を拒絶した。
……終わった。全てが終わった。
終わらせてしまったのは俺自身だ。
声にならない声が湧き出してきた。
激しい後悔。
誰かが泣き叫んでいる。
獣のような咆哮だ。
声の主は俺自身か?
自分自身の泣き叫ぶ声を聞きながら、俺の意識は消滅していった……。


876 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:22:19 id:XU1AEzQY0
 
やがて、俺たちの車は目的地に到着した。
一木氏の邸宅だった。
文と朴が出迎えに門から出てきた。
文は、酷く蒸し暑いというのにマスクを外そうとしなかった。
朴は左耳が一部、欠損していた。
朴の話によると、マミの悲鳴を聞いた俺は、人間とは思えない物凄い奇声を上げて、その場にひざまついて、床を殴りつけていたそうだ。
あまりの異様さに、その場に居た全員が凍りついた。
そして、奇声が止んだ次の瞬間、俺はマミに襲い掛かった……らしい。
最初に反応して俺を止めに入ったキムさんは、頭部に肘を喰らい、頭蓋骨骨折の重傷を負った。
この時点で、未だリハビリのため入院中と言う事だった。
キムさんに続いて俺を取り押さえに掛かった文は、鼻を噛み切られたらしい。
朴は、左耳の一部を『喰われた』ようだ。
権さんが暴れる俺を捕らえ、更に若手の連中が取り押さえ、師範が俺を締め落したそうだ。
「……まるで、獣のようだったよ。人喰いのな。
正直に言わせて貰えば、俺は今でもお前が怖い。 あんなことは、二度と御免だ。。。」
朴の俺を見る目は、明らかな怯えを含んでいた。
朴の話を聞いて、俺は激しい衝撃を受けていた。
俺は、マミに襲い掛かったのか?
あの、マミに。。。


877 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:25:18 id:XU1AEzQY0

取り押さえられた俺は、そのまま昏睡状態に陥ったらしい。
マミも精神的に深刻なショックを受けていたようだ。
久子経由で連絡を受けた祐子は、キムさん達を集団暴行で告発すると息巻いていたそうだ。
特に、マミの状態は、彼女の為に各方面に掛け合って尽力した祐子の怒りに火を注いだ。
だが、被害で言えばキムさん側の方が甚大だった。
キムさん以下、6名が病院送りとなり、3名が未だ入院中なのだ。
マサさんが言った。
「そのまま放置すれば、お前の命はなかっただろう。
バルド・トドゥルの49日間の間に命を落していたはずだ」
 
俺がマサさんの井戸の中身の『箱』を封印している間、木島氏と天見琉華は、秘密裏に俺の両親とマミに接触していた。
そして、マミは、俺の置かれた状況の詳しい説明を受けた。俺が知っていた以上の。
彼女は、琉華たちの説明や一木家の人々との面談を通して、はじめて俺の置かれた状況を『理解』したようだ。
だが、その事は敢えて隠された。
俺が『定められた日』を回避する為の道は、『戦う』以外の最良の道は、他にあったのだ。
俺は、香織を通じてもたらされた『行』を続けながら、マミと共に『定められた日』を震え、怯えながら過ごしていれば良かった。
朴の言ったように、俺が逃げてしまえばよかったのだ。
ヒントは与えられていた。
俺に逢いに来た除だ。
クライアントの愛人の女と逃げた彼のように、マミを連れて逃げてしまえば良かったのだ。


878 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:27:01 id:XU1AEzQY0

だが、天見琉華はマミに言ったそうだ。
恐らく、俺は『逃げる』という選択は出来ないだろうと。
『行』では、俺の中の『鬼』は抑え切れない。
それが俺の業であり性質であると。
俺が抱え続ける『死への執着のカルマ』により、俺は、『死地』の中に逃げ込むだろう、と。
だが、これは、俺が自ら気付き、越えなくてはならない関門だ。
他の者が、特にマミが俺に教えてはならない、と、念を押したらしい。
俺が、自分の中の『鬼』と対峙する場、『行』により鬼を調伏出来なかった俺が逃げ込む『戦いの場』は、彼らの方で用意しようと。
この『戦いの場』で、イサム達との戦いの過程で、俺が命を落す危険性は高い。
生存本能による抑制が、働かないからだ。
だが、問題はその後だ。
死線を越えた後、俺が今生の、今ある『生』に執着するか、それが最大の問題だ。
俺の『生』への執着のポイントになるのがマミの存在だと、念を押したという事だ。
耐えて待つしかないと。
マミは、耐えた。
本当は、真相を話し、俺に『逃げる』選択を促したかったことだろう。
だが、最後の最後でマミは耐えられなかった。
それが久子の言っていたマミの脆さ、弱さだったのだろう。
俺が家を出たことを知ったマミは、イサムに連絡を入れ彼を問い詰めた。
イサムはマミを止めようとしたが結局押し切られ、マミを道場に連れて行ってしまったようだ。


879 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:31:13 id:XU1AEzQY0

運命の夜が過ぎ去った後、俺は眠り続けた。
やがて年が開けた。
どうにか落ち着きを取り戻したマミは天見琉華に呼び出され、激しく叱責された。
マサさん曰く、
「琉華の奴がお前の事であんなに怒り狂うとは思わなかったよ。意外だった。。。」
マサさんによると、天見琉華はマミに問うたそうだ。
まだ、俺を助けたいか?と。
マミは助けたい、助けて欲しいと答えた。
天見琉華は言ったそうだ。
俺の命を救う事は可能だと。
意識も戻るだろう。
だが、意識が戻っても俺がマミを『選ぶ』可能性は殆どないだろう。
恐怖か憎悪かは判らないが、俺はマミに対し激しい拒絶感を抱く。
マミ本人によって刻み付けられた拒絶感だから、こればかりはどうにもならない。
元の二人には戻れないが、それでも良いか?と。
マミは答えた。
それで構わないと。


880 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:32:59 id:XU1AEzQY0

マサさんが動いて、俺と関わりのある女たち……俺を『生』へと執着させる可能性のある人物が集められた。
日替わりで彼女達は自宅療養中の俺を訪れ、天見琉華の『術』を介して俺に語りかけた。
本来は、マミが行うはずだった『儀式』だ。
訪れた女達の中で、俺を目覚めさせたのは奈津子だったらしい。
目覚めはしたが、俺は全くの白紙の状態だった。
生ける屍だ。
天見琉華が俺を助ける条件として提示したのは、一定期間、マミが木島氏たちの許に身を置くというものだった。
俺が目覚めた時点で、マミは木島氏の許に行くはずだった。
だが、俺の意識が完全に戻るまで傍にいさせてやって欲しい、と俺の両親が木島氏に頼み込んだらしい。
榊氏の計らいでマミは実家に留まる事を許された。
やがて、俺は、記憶はないものの完全に意識を取り戻した。
天見琉華の予告通り、俺はマミに激しい拒絶感を抱いていた。
態度には出すまいとしていたが、マミも感じ取っていたはずだ。
記憶を失う以前の事については、周りの人間が俺に教えることは厳しく禁じられていた。
俺が意識を取り戻してから暫くの間は猶予が与えられたが、それも遂に終わりを告げた。
イサムの訪問だ。


881 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:35:58 id:XU1AEzQY0

マサさんは、イサムから俺が彼に託したUSBメモリーを示された。
中には音声ファイルが入っていた。
マミのMP3プレーヤーの中に入っていたあの曲だ。
あの曲は、俺が深い瞑想中に聞いた曲を『耳コピ』したものを権さんがピアノで弾いて再現したものだった。
マサさんは、曲を聞いて俺が事前に何を行ったかを瞬時に理解したそうだ。
そして、イサムに言った。
恐らく、この曲を聞かせれば、俺は以前の記憶を取り戻す。
俺とマミ次第ではあるが、元通りにやり直すことも出来るだろう。
どうするかは、お前自身が決めろ。
この事を知っているのはイサムとマサさんだけだ。
どのような行動に出たとしても、マサさんは誰にも言わないし、イサムを責める事も軽蔑する事もない、と。
結局、イサムは託された曲をマミに渡した。
俺は、あの曲を聞き、記憶とマミへの思いを取り戻した。


882 :回帰3 鬼哭 ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/29(水) 06:38:20 id:XU1AEzQY0

マミが去って3ヶ月弱。
今、マミは榊氏の許に居ると言う。
「明日、逢えば判る」そう言って、詳しい事情は教えられず仕舞いだった。
だが、マミにただならぬ事態が生じているのは確かだ。
今すぐにでも、マミの許へ走り出したかった。
彼女に何が起こったのか、無事なのか?
俺の眠れぬ一夜は始まったばかりだった。
 
 
つづく

 

回帰2 目覚め

830 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:00:10 id:i66qlXSQ0

木島氏の指定した待ち合わせ場所に居たのは、意外すぎる人物だった。
50代半ば程の年恰好。
暗い店内にも拘らず、濃い色のサングラスを外そうとしない男に俺は言い尽くせぬ懐かしさを感じていた。
彼には、話したい事も、聞きたいことも山ほどあった。
だが、全ては後回しだ。
何よりも重要な用件が俺には有った。
そのために俺は、この日を待ち続けていたのだ。
「俺は待ったぞ。 約束だ、マミを帰して貰おうか? 今直ぐにだ!」
「まあ、そう慌てるなよ。 まずは、席に着いたらどうだ?」
冷静な男の声が俺の神経を逆撫でた。
「……すまないな。事情が有って、彼女を帰す訳には行かなくなった」
サーっと、血の気が引いてゆくのが判った。
焦燥と共に、激しい怒りや殺意、憎悪が俺の血管の中で沸騰した。
「ふざけるなよ? 舐めた事を抜かすと、幾らアンタでも容赦はしないぞ?
話が違う! どう言う事なんだ、答えろよマサさん!」


831 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:02:28 id:i66qlXSQ0

2月某日
白い朝の光に包まれて、俺は目覚めた。
「おはようございます、XXさん。 今日も良い天気ですよ」
若い女が、そう俺に声を掛けてきた。
状況の飲み込めない俺は、錆付いた言語中枢と舌を駆使して、たどたどしい言葉を発した。
「ここは……どこだ?」
女が驚いた表情で俺の顔を覗き込んだ。
彼女の眼から、大粒の涙が落ちてきた。
「少し待っていてくださいね!」
そう言うと、彼女は慌しく部屋を出て行った。
どうやら、俺は前年末から眠り続けていたらしい。
数週間前に意識を取り戻したが、外界に反応を示さず、ただその場に居るだけの存在と化していた……ようだ。
ただ、目覚めはしたものの、俺の中は空っぽだった。
何も思い出せない。
目に見える全て、耳に聞こえる全てに強烈な違和感があった。
いま、俺がいる此処は何処だ?
俺の目の前にいる人々は誰だ?
そして、俺は誰だ?
俺は、鏡の中に映る己の姿にさえ強烈な違和感と嫌悪感を感じずにはいられなかった。


832 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:06:18 id:i66qlXSQ0

俺が今いる場所は、俺が育った家らしい。
目の前の老夫婦は俺の両親だということだ。
二人は俺をXXと呼んだ。
俺の名前か?
だが、強烈な違和感があって、とても自分の名前だとは思えない。
そして、甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれている若い女
老夫婦を『お父さん』『お母さん』と呼ぶ彼女は、俺の妹ということか?
だが、『マミ』と名乗るこの女に、俺は最も強烈な違和感を感じていた。
彼女の姿、声、触れられた指の感触……全てに、耐え難い違和感があった。
他の者からは感じられない、ざわざわとした何かが俺のなかに沸き起こった。
それが、恐怖なのか嫌悪なのかは、すべてを忘れてしまっていた俺には判らなかった。
ただ、ひたすらに居心地が悪かった。


833 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:08:02 id:i66qlXSQ0

マミは、朝、俺が目覚めてから、夜、眠りに就くまで付きっ切りといった按配で俺の身の回りの世話をし続けた。
20歳前後の年格好の彼女が、何故そこまでするのか、俺には理解不能だった。
俺の見舞いに訪れた二人の女……俺の姉と妹と名乗った女達にも違和感を感じた。
眼鏡をかけた長い黒髪の小柄な女が素子。俺の姉らしい。
背が高く、髪をベリーショートにした、見るからに勝気そうな女が久子。妹のようだ。
二人の体格や雰囲気は大分違っていたが、顔立ちは良く似ていた。
俺のきょうだいだとは信じられなかったが、二人が姉妹なの間違いなさそうだった。
そして、二人の顔立ちは俺の『母』にも良く似ていた。
だが、マミの顔立ちは二人とはかなり違っており、姉妹とは思えなかった。
違和感は消えなかったが、俺は徐々に家や両親、素子や久子の存在に『慣れて』いった。
だが、マミに感じていた違和感は強まりこそすれ、彼女の存在に慣れることは無かった。
マミが心根の優しい娘である事は直ぐに判った。
まだ幼さの残る容姿も、細過ぎる嫌いは有ったが、美しいと言えるだろう。
だが、彼女に甲斐甲斐しく世話をされるほどに俺の感じる違和感……嫌悪感は強まっていた。
理性の部分では彼女に感謝していたが、彼女の存在は俺にとって苦痛でしかなかった。
何故?
父も母も、素子や久子、そしてマミも、意識を失う以前の俺の事を何も教えてくれなかった。
錆び付いていた心身の回復に伴って、俺の中に耐え難い焦燥感が生じ、大きくなっていった。


834 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:09:25 id:i66qlXSQ0

目覚めてから1ヶ月、日常生活に支障が無くなった頃に、一人の青年が尋ねてきた。
何か大きな事故にでも遭ったのだろうか、膝に装具を着け、松葉杖で歩く彼は『イサム』と名乗った。
彼との関係も思い出すことは出来なかったが、イサムは俺を『先輩』と呼んだ。
彼の存在は、俺にとって不快なものではなかった。
俺が眠り続けている間も、怪我を押して2度も見舞いに訪れてくれていたらしい。
俺にとっては初対面同然だったが、イサムとはウマが合った。
同時に、なんとなく判った。
俺の見舞いを口実にしては居るが、イサムはマミ逢いたくて此処に来ているのだと。
……お似合いじゃないか。
イサムの不器用さを微笑ましく思うと共に、俺は何故か一抹の寂しさを覚えていた。
理由は判らなかったが。


835 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:11:42 id:i66qlXSQ0

俺が引き止めて、2・3日逗留していたイサムが帰って行った日の晩の事だ。
俺は、喉の渇きを覚えて目が覚めた。
何か飲もうと、部屋を出て1階のキッチンへと向かった。
階段を下りると居間に誰かがいる。
マミだ。
こちらに背中を向け、ソファーに深く身を沈めていた。
光取りの窓から街灯の光が入り込み、真っ暗ではなかったので階段の灯りは点けていなかった。
イヤホンで何かを聞いていたらしく、マミは俺に気付いていなかった。
……マミは、肩を震わせて泣いていた。
胸が締め付けられた。
比喩的な意味ではなく、本当に胸が痛んだ。
マミを泣かせている原因が、恐らく俺自身であることを考えると、いたたまれなかった。
このまま跡形もなく消滅してしまいたい……。


836 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:13:30 id:i66qlXSQ0

立ち尽くす俺に、マミが気づいた。
慌てたように涙を拭い、明らかに無理をして作った明るい声で言った。
「XXさん、こんな時間にどうしたの?」
「ちょっと喉が渇いたのでね。マミは……こんな時間まで起きてたの?」
「はい、ちょっと眠れなくて……」
……気まずい空気が流れていた。
『何で泣いていたの?』と聞ける訳もなく……だが、泣いているところを見てしまったのはマミにもバレているだろう。
ふと思いついて俺はマミに言った。
「何を聞いていたの?」


837 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:15:26 id:i66qlXSQ0

「これですか?何の曲かは知らないのですけど、気に入っているんです」
「聞かせてもらってもいい?」
「どうぞ」
俺は、マミからプレーヤーを受け取り、イヤホンを耳に嵌めて曲を流し始めた。
単純な旋律が続くピアノ曲だった。
曲名は判らないが、何処かで聞いたことがある曲だ……何の曲だ?
やがて、曲が流れ終わると、何故か、俺は激しい頭痛に襲われた。
「どうしました?」マミが心配そうな表情を俺に向けた。
「何でもない。音量が大き過ぎたみたいだ。いい曲だね」
「……はい」
「もう遅いから寝ないと……おやすみ、マミ」
「おやすみなさい……」
マミは、じっと俺の顔を見つめながら、淋しげな表情を見せた。
 
頭痛を抱えたまま、俺は床に戻った。
あの曲は何だったのだ?
疑問を感じたまま、やがて俺は眠りの中に落ちていった。


838 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:18:12 id:i66qlXSQ0


昨夜の激しい頭痛は治まっていた。
その朝は、いつも7時丁度に起こしに来るマミが姿を現さなかった。
階段を下り、1階のキッチンへ行くと、朝食が用意されていた。
だが、誰もいない。
珈琲を淹れて飲んでいると、テーブルの上に置かれたmp3プレーヤーが目に付いた。
マミの物だ。
そして、不意に、昨夜に聞いた曲と共に、俺は全てを思い出していた。
……何てことだ!
何故、忘れていたんだ!
胸の奥から溢れ出てくる熱いものがあった。
意識が戻って以来、晴れることのなかった『靄』が消え、『現実感』が戻っていた。
だが、同時に俺は深い絶望感に囚われていた。
『あの日』マミが俺に向けた、あの表情……『恐怖』に歪んだ表情を思い出したのだ。
マミに激しく拒絶された、あの絶望感と喪失感を。


839 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:21:41 id:i66qlXSQ0

前の晩に聞いた曲は、イサムに託したUSBメモリーの中に俺が入れて置いた曲だった。
ファイルには財産目録や遺言書のコピー、そして、マミに宛てた遺書が書き込まれていた。
俺に何かあったとき、マミに渡して欲しい……そう、頼んであったのだ。
そして、俺はこの曲を使って自己暗示を掛けていた。
この曲を切っ掛けにして、全ての記憶を思い出す精神操作だ。
……深い瞑想時に、深層意識下で見たり聞いたりしたものを覚醒後に思い出す為の技術の応用だ。
この曲は、長年、俺が使い続けて来た曲でもあった。
役立つとは思っていなかったが、一縷の望みをかけて自己操作を行っていたのが功を奏したのだ。
  
俺は、目論見通り、『定められた日』を回避する事に成功していた。
だが、その事に何の意味がある?
俺は、足掻いた。
全力で。
しかし、俺の足掻きは彼女を決定的に傷付ける結果となってしまった。
俺には、もう、彼女に触れ、愛を囁く勇気はなかった。
記憶のない俺に、マミは献身的に尽くしてくれた。
俺の記憶が戻らなければ、あるいは、徐々にでも新たな関係を構築する事も可能だったのかもしれない。
だが、それは叶わない。
俺は、マミにとっては恐怖と嫌悪の対象。
『あの日』と同じ自分でしかないのだから。


840 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:24:34 id:i66qlXSQ0

誰も居ない家の中で、俺はジリジリとしながらマミと両親の帰宅を待った。
そして、何となしにマミのMP3プレーヤーをもう一度聞いてみた。
中には一曲だけ、昨夜のピアノ曲とは違う、聴いたことの無い歌が入っていた。
歌を聴いて、俺は目の前が真っ暗になるのを感じた。
マミは、もう帰ってこないのではないか?
俺の悪い予感は的中した。
昼前に、両親だけが戻ってきた。
俺は両親に「マミはどうした?」と尋ねた。
嫌な予感に俺の声も体も震えていた。
父が答えた。
「マミちゃんは、木島さんと一緒に行ったよ。。。」
俺が予想していた中でも、最悪の回答だった。
体の内側から弾け出すものに訳が判らなくなって、俺は泣き叫んだ。
「何故だ! 何故行かせた!」


841 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:27:06 id:i66qlXSQ0

連れ戻してやる、そう思って家を飛び出そうとした俺を父が制した。
「何処へ行くつもりだ?」
「決まっているだろ? マミを連れ戻しに行くんだよ。離してくれ!」
「駄目だ」
「何故?」
「これは、あの娘が決めたことだからだ。 誰でもない、お前のためにな。
お前の為に、あの娘は木島さんたちと契約したんだ。
それを、お前が無駄にしてはいけない」
 
意識を失ったままの俺を目覚めさせる為、組織が動員を掛けて多くの人が関わったらしい。
霊能者の天見琉華を中心に、奈津子や木島氏の次女・藍、仕事でガードした事もあるオム氏の娘・正愛(ジョンエ)。
イサムの姉の香織や、組織に全く関係の無い、ほのかや祐子も俺を目覚めさせる為に手を貸してくれたようだ。
何が行われたのか、詳細は判らない。
ただ、その交換条件が、一定期間、マミが木島氏たちの下に身を置く事だったらしい。


842 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:29:28 id:i66qlXSQ0

俺は、組織を恐れていた。
未だ目覚めては居ないものの、マミは組織が探索していた『新しい子供』の一人……らしいからだ。
だが、他方で、俺に何かが有った時、マミの身の安全の保証を頼めるのも、木島氏達の組織しかなかった。
だからこそ、俺は古くからの友人であるPではなく、イサムにマミのことを頼んだのだ。
可能であれば力ずくでも、組織の人間を一人づつ的に掛けてでも、マミを探し出し取り戻したかった。
だが、萎え切った今の俺の心身では不可能に近い。
俺は、父に尋ねた。
「マミは、戻ってこれるのか?」
「ああ、そう聞いている。あの娘が望めばな」
「そうか。。。」
「今は耐えて、待つしかない。
あの娘は、絶望的な状況でお前が目覚めるのを待ち続けたんだ。
あの娘は耐えた。お前が目覚めてからも、耐え続けた。
誰のためでもない、お前のためにな。
今は、お前が耐えろ。お前が出来る事はそれしかない」


843 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:31:32 id:i66qlXSQ0

「あの娘と暮らした思い出の詰まった家じゃ、居辛いでしょ?
私の所に、いらっしゃい。あの娘が戻ってくるまで。
少しの間だけ、また一緒に暮らしましょう。……学生の頃みたいに、ね?」
という、久子の言葉に甘えて、俺は実家を出て久子のマンションに身を寄せた。

来る日に備えて、俺は『修行』を再開した。
時間だけはあるのだ。
「いつも家に居て、炊事・洗濯、家事一般をやってくれるなら、稼いでこなくても幾らでも食わせてやるわよ」
「おいおい、俺に専業主夫をやれと? んっ?前にも、同じような台詞を聞いたな。。。」
「一番大事な『かわいい』って条件は満たしていないけれど、大目に見てあげる。
家事一般は、お兄ちゃんの方が上手いもんね」
「姉さんに厳しく仕込まれたからな。……お前、調子の良い事を言って、そっちが目的だったんだろ?」
「あら、今頃気付いたの? 鈍いわね」


844 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:35:39 id:i66qlXSQ0

久子の許に身を寄せて3ヵ月。
木島氏と約束した日の前夜。
眠れぬまま横になっていた俺の布団の中に久子が入ってきた。
そして、無言のまま、背中から抱きついてきた。
「……おい、何だよ?」
「……ごめん、少しでいいから、このままで居させて」
背中で久子が泣いているのが感じられた。
やがて久子は泣き止み、口を開いた。
「いよいよ、明日ね」
「ああ。 ……なあ、マミは帰ってくると思うか?」
「判らない」
「そうだよな。
嫌な事を思い出させて悪いんだが、あの事件の後、お前、俺のことを酷く怖がっていたよな?
……俺は、そんなに怖かったか?」
「……怖かったよ。お兄ちゃんが、私のせいで、私の知っているお兄ちゃんじゃ無くなっちゃったんじゃないかって」
「そうか。。。」
「頭では判っているの。例え『鬼』になっても、お兄ちゃんが女の子に手を挙げる事は無いってことは。
むしろ、お兄ちゃんが『鬼』になるのは、誰かを守りたいからなんじゃないかな?
でも、怖いのよ。 理屈じゃないの。
特に、マミちゃんは、私なんかと比べようが無いくらいに傷付けられているから、理屈抜きに怖かったんだと思う」


845 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:39:10 id:i66qlXSQ0

「そうか。。。」
「うん。……そして、物凄く後悔していると思うんだ。
お兄ちゃんを怖がって、拒絶してしまった事を。傷つけちゃったことを。
……ごめんね。お兄ちゃんは、私を助けてくれたのにね。。。」
「泣くなよ。……過ぎたことだ、気にするな。アレだけの事をやっちまっったんだから、むしろ当然の反応だよ。
それに、俺自身が怖いんだよ。時々歯止めの利かなくなる、際限なく冷酷になれる自分が。
何かの拍子にコントロールを失って、お前やマミに矛先を向けてしまうんじゃないかって。。。」
「それは無いよ。 絶対にないって!
でも、どんな結果になっても、あの娘の事は許してやって」
「むしろ、許しを請わなければならないのは俺の方だよ。
でも、例え俺が拒絶されたとしても、アイツはやっぱり連れ戻さなきゃいけない。
頼むな。マミの事を一番判ってやれるのは、やっぱりお前なんだよ」


846 :回帰2 目覚め ◆cmuuOjbHnQ:2014/01/24(金) 01:40:58 id:i66qlXSQ0

マサさんは言った。
「すまない。……予定では、もっと早く帰して遣れるはずだったんだ。
想定外の事態だ。
我々も、あの娘を救いたい。 一緒に来てくれないか?」
マミに、ただならぬ事態が生じているらしかった。
俺は、マサさんに同行した。


つづく