近未来都市の幽寂

近未来都市の幽寂

サブブログ。転載・メモ用途。

チルドレン

1573 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:47:12 id:kgX5MNas0

お久しぶりです。
中途半端になっていた前回の話の続きを。
纏り無く拙い文章ですがお付き合い下さい。

少年の両親の許可を得て、俺達は彼を霊能者・天見琉華の許へと連れて行った。
詳しい事情の判らないキムさんは憮然としていた。
「まさか、お前が琉華と接触しているとは思わなかったよ・・・」
「いや、俺も好き好んであの人と関わっている訳では・・・俺だって、出来れば関わりは持ちたくないですよ」
「だろうな」
琉華の弟子の40代くらいの女性の仕切りによる儀式と琉華による少年の『霊視』が行われた。
霊視は3時間を予定していたが、40分ほどで琉華は瞑想から覚め、霊視を切り上げた。
事前に予想していた事だったが、少年からは何も得る事は出来なかった。
宿命通や他心通、天眼通といった『力』が全く通用しないらしい。
霊視が失敗に終わり、何も得る事が出来なかった・・・・・・が、それ自体が、収穫と言えた。
「・・・・・・どうでしたか?」
「そうね、この子は『新しい子供』で間違いなさそうね。封じられて切り離されてしまっているみたいだけど」
満を持してキムさんが尋ねた。
「その、『新しい子供』とは、何の事なんだ?」
俺は、琉華の方を見て訊ねた。
「話しても良いのですよね?」
「ええ、いいわ。彼にも聞く権利はあるからね」
俺は、呼吸を落ち着けてから話し始めた。
「キムさん、これはマサさんにも関わりの有る話なんです」


1574 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:48:40 id:kgX5MNas0

俺が琉華から聞いた『新しい子供たち』の話は大凡、以下のようなものだ。
『新しい子供たち』とは、一部の霊能者や宗教家、占術家などの間でかなり以前から出現が予想されていた特別な子供だ。
『子供たち』の出現は『旧世代の偉大な霊力』の消滅を期に3段階を辿るとされているそうだ。
第一段階は1989年、第二段階は2005年だったらしい。
その翌年をピークに『新しい子供達』は世界中で出生していると予想されている。
出生前から確実視された極少数の例外もあったが、霊能者集団や宗教団体の探索にも関わらず、その発見は困難を極めた。
『例外』についても、霊的にだけではなく現実的な強固な護りの中にあり、霊能者や宗教家が手出しする事は不可能だった。
何人かの霊能者が遠隔での霊視を試みたようだが、結果は悉く失敗に終わった。
しかも、事態は霊視の失敗だけでは済まなかった。
その子供の霊視を試みた霊能者たちは、霊視の失敗と同時にその『霊力』を失ったのだ。
天見琉華も『子供たち』の探索を行っていた。
そして、ある特殊な事例を通じて『新しい子供たち』の謎の一端に触れる事に成功していた。
俺とマサさんは、偶然、その事案に関わっていたのだ。


1575 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:49:49 id:kgX5MNas0

その日、俺とマサさんは、俺の旧い知人の店で一杯やっていた。
マスターを交えて取り留めの無い話をしていると、メールを受信した俺の携帯が鳴った。
メールの発信者は住職だった。
住職の呼び出し自体は、そう珍しい事でもなかった。
時々「たまにはアリサの墓参りに来い」だとか、「珍しい酒が手に入ったから飲みに来い」と言って俺を寺に呼びつけた。
俺自身、住職の事は好きだったので、呼び出されては寺を訪れていた。
住職はカルトに嵌ったり、誤った『行』の世界に足を踏み入れ『魔境』に陥った者に対する救済活動を行っていた。
考えてみると、俺自身が住職にとっては『救済対象』なのかもしれない。
だが、そのメールはいつもとは趣を異にしていた。
「是非、頼みたい事がある。出来ればマサさんも連れてきて欲しい」
住職が俺に頼み事をするのは初めてのことだった。
まして、面識の無いマサさんを連れてきて欲しいと言うのは只事ではなかった。
どうしたものかと悩んでいると、マサさんが「どうした?」と声を掛けてきた。
俺はマサさんにメールを見せた。
「お前の恩人なんだろ?まあ、俺もこの住職には興味があるしな・・・・・・いいよ。付き合うよ」
俺達は、指定された日に寺を訪れた。


1576 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:52:08 id:kgX5MNas0

寺に到着すると意外な人物が俺達を迎えた。
山佳京香・・・かつて、俺が『仕事』で関わった女だ。
元ヨガ行者だった彼女は、所謂『超能力』に魅せられ、薬物や『房中術』を濫用し、『能力』を悪用していた。
深い『魔境』に堕ちていた彼女は、天見琉華の手により『気道』を絶たれ『能力』を封じられた。
そんな彼女を俺は住職に紹介したのだ。
『能力』を封じられたはずの彼女は以前とは質の異なる強い『気』を発していた。
住職に引き合わせた頃・・・・・・琉華の手による『処置』と『行の反動』で憔悴し切っていた様子からは信じられない回復ぶりだった。
既に還暦に達しているはずだったが、見掛けは四十代くらいにしか見えない。
「なぜ、アンタがここに居るんだ?」
「住職にはお世話になっているからね。そちらが貴方の『先生』ね。
早速で悪いのだけど、一緒に来ていただけるかしら?住職が待っているわ」
京香の運転する車に15分ほど揺られていると旧い作りの民家に到着した。


1577 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:53:23 id:kgX5MNas0

寺で京香に出迎えられた時点で、俺は嫌な予感がしていた。
そして、その予感は的中した。
京香に続いて門を潜るとマサさんが言った。
「結界だ・・・この感じは、多分、琉華だな・・・・・・」
俺にとっても、マサさんにとっても天見琉華は、余り接触したい相手ではない。
「どうする?・・・・・・戻るなら、今のうちだぞ?」
「ここまで来て、そうもいかないでしょ。住職に挨拶だけでもしないと・・・・・・」
「・・・・・・そうだな」
 
門を潜ると妙な臭気が鼻を突いた。
何の臭いだろう?
玄関を開けると家主だという若い男性が俺達を迎えた。
強烈な臭いが屋内を満たしていた。
獣臭とも屍臭ともつかない、吐き気を催す類の臭いだ。
家主はこの臭気に全く気付いていない様子だった。
俺達は奥の部屋へと通された。


1578 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:54:26 id:kgX5MNas0

居間では、品の良さそうな老夫婦と住職が俺達を待ち構えていた。
老夫婦に挨拶してから俺はマサさんを住職に紹介した。
「彼が、何度かお話した事のある『マサさん』です」
「そうか、この方が・・・・・・無理なお願いを聞いて頂いて、かたじけない。よく来て下さった」
暫くマサさんと話をした後、住職は襖を開け隣の部屋に俺達を通した。
12畳ほどの和室の中央に一人の男が横たわっていた。
住職は俺に尋ねた。
「お前さん、彼をどう見るかね?」
「生きているのが不思議な程に精気が抜け切っていますね。
・・・・・・これに似た状態の人間を以前に見た事がありますよ。
その人物は、質の悪い行者に房中術で精気を抜かれていたんですけどね。
・・・・・・そう、アンタの被害者の松原にそっくりだよ。何でこうなった?」
俺は、住職の傍らに座っていた山佳京香に向って言った。
一目見て判った。
質の悪い『世界』に繋がっている・・・・・・そして、彼を『通路』にして『魍魎』が湧き出していた。
「判る?・・・・・・彼はね、以前の私と同じなのよ。それが、私が送り込まれた理由。経験者ってことね」
何となくだが、事情は理解した。
だが、彼は既に手遅れに見えた。
虚ろな目は開いているだけで何も見てはおらず、精気の抜け切った身体は死体のようだった。 
 
俺達の前に横たわる男、それが、寺尾昌弘だった。


1579 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:56:43 id:kgX5MNas0

寺尾昌弘は30代後半の日本人男性だった。
彼は、特殊な経歴の持ち主だ。
中学生の頃から『行』の世界に興味を持ち始め、没頭してきたのだ。
彼が多くの『修行者』と異なっていたのは、敢えて『師』を持とうとはせず、自らの手で『行法』を組み立てたことだった。
中学生ではあったが、『宗教的師弟関係』や『教祖的個人信仰』の欺瞞や危険性に気付いていたのだ。
だが、自己流の『行』に邁進した結果、彼を待っていたのは深い『魔境』だった。
 
寺尾の両親の話では、彼が『修行』にのめり込む切っ掛けが何だったのかは良く判らないようだ。
だが、中学生だった彼は急にオカルトやスピリチュアル系の書物を読み耽り、収集するようになった。
寺尾の両親は多忙を極めており、寺尾の学業成績はトップクラスをキープしていたので『変なものに興味を持ったな』と思ったくらいで特に干渉はしなかったようだ。
しかし、高校生になると、寺尾の『修行』は奇行と呼べるレベルに達した。
部屋に引篭り、日によっては10時間以上も『修行』に没頭した。
学校も欠席しがちとなり、出席日数は進級・卒業に必要なギリギリの日数だったようだ。
だが、目覚めている時間の殆どを『修行』に費やしている感のあった彼は、第一志望の難関大学に現役で合格した。
周囲は彼の『快挙』を喜ぶよりも、何故?と薄気味悪く思ったそうだ。
大学生となった彼は益々『修行』にのめり込んだ。
さらに、アルバイトで資金を貯めては、一回数10万円もする海外のセミナーにも参加するようになった。
寺尾は留年を重ね、両親は彼の将来を半ば諦めていた。
だが、大学6年生の時、寺尾は何か憑物が落ちたように『修行』をキッパリと止め、今までの遅れを取り戻すかのように勉学に励んだ。
放校寸前の8年生でどうにか卒業し、大学のブランドも効いたのだろう、大手企業への就職も決めた。
やがて同じ職場の女性と結婚し、海外赴任中に長女にも恵まれた。
曲折はあったが寺尾の人生は順調そのものに見えた。
だが、海外赴任から戻った息子と再会した時、寺尾の両親は戦慄した。
一時帰国時には気付かなかったのだが、寺尾は以前の彼に戻っていたのだ。


1580 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:58:34 id:kgX5MNas0

案の定、寺尾は『修行』を再開していた。
寝る時間も惜しんで『修行』に没頭し、無断欠勤を重ねて会社を解雇された。
失業後、暫くすると寺尾は失踪した。
寺尾の失踪後、妻は娘を連れて実家に戻った。
だが、実家に戻って暫くすると、寺尾の妻は幼い娘を残して自殺した。
更に、娘が事故死し、孫娘を引き取っていた寺尾の妻の両親も死亡している。
事故とは言え、孫娘を死なせた事を苦にしての覚悟の心中では?と噂されたようだ。
妻の実家が死に絶えた数ヵ月後の事だった。
寺尾夫妻に警察から連絡が入った。
失踪していた息子が保護されたというのだ。
入管が不法滞在の外国人女性宅に踏み込んだ際、その女性の部屋に心神喪失状態の寺尾がいたらしい。
財布に入っていた、期限切れの運転免許証から身元が判明したようだ。
複数の医師に掛かったが、寺尾は心神喪失状態から回復しなかった。
やがて、自宅療養する寺尾の周りで、妙な現象が多発するようになった。
『怪現象』だけではなく、夫妻は連日悪夢に襲われるようにもなった。
寺尾が大学生の頃、夫妻の相談に乗っていた人物がいた。
その人物を介して紹介されたのが、誤った『行』に嵌り込んで『魔境』に堕ちた若者を数多く救ってきた住職だった。
 
住職を尋ねてから、寺尾夫妻は息子の修行遍歴・・・・・・参加したセミナーや接触した組織について調査した。
調査を進めると次々と意外な事実が明らかになっていった。


1581 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 05:59:35 id:kgX5MNas0

職場結婚の筈だった寺尾と妻の出会いは、学生時代に参加したとある海外セミナーでの事だったようだ。
寺尾の妻は帰国子女だ。
驚いた事に、妻の実家の両親はセミナーの主催団体の有力幹部だった。
セミナー参加の為に渡航する度に寺尾は妻とその両親の家に滞在していたらしい。
そんな事実は息子からも、妻の両親からも聞かされていなかった。
寺尾の妻の両親はその団体の幹部であり、妻も会員だったが、寺尾自身は団体に加入していなかった。
妻の団体だけでなく、彼は『行』の情報を収集する為に各種のセミナーに参加し、様々な団体と接触していたが、特定の団体に所属する事は無かった。
あくまでも、自分で組み立てた『行』を補完し、改良する為であり、特定の人物に師事したり宗派に帰依する気は無かったらしい。
寺尾の両親は息子夫婦の海外赴任中の様子を元同僚などに当たって調査した。
海外赴任中の寺尾夫妻の評判は芳しくなかった。
特に、妻が駐在員の家族や現地人の同僚などを熱心にとある団体の無料セミナーなどに勧誘していた。
その勧誘は執拗で、苦情が入り寺尾は直属の上司から叱責も受けていたらしい。
「息子さん夫婦が参加していたのは、どういった団体だったんですか?」
「ヨガを元にした『人間を超越する瞑想修行』という触れ込みのセミナーだったようです。
セミナーの主催者は宗教団体ではなく、韓国系のフィットネス事業を展開する企業だったみたいですね。
『韓国発祥のヨガ』をベースにした『脳力』と『丹力』を開発すると言う触れ込みの『行』だったようです」
「韓国発祥のヨガって・・・・・・まあ、ヨガに似た『行』は無い事もないのですけどね・・・臭ぇ・・・詐欺の臭いしかしないな」
「ローンを組ませて法外な料金を請求したり、講師が受講者に性的暴行を加えたりして、向こうでは訴訟も起されているみたいですね。
息子夫婦が参加していたのは、その分派の団体だったようですが・・・・・・」


1582 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:01:04 id:kgX5MNas0

京香が言った。
オウム事件の前、まだ日本経済が元気だった頃ね。
日本の大手企業が瞑想行や断片的な『行』を社員研修に積極的に取り入れていたことがあるのよ。
それに倣って、欧米の大企業でも瞑想セミナーが流行ったみたいね。
日本での『流行』が下火になると、向こうでも廃れていったみたいだけど・・・・・・最近、また流行り出しているらしいわ。
その団体も勤め先の企業に浸透する目的で息子さん夫婦に近付いたのかもね」
「私も、そう思います。
ただ、息子の場合、更にそこからいかがわしい連中と付き合うようになったみたいです」
住職が俺の前にi-podを差し出して言った。
「お前さん、これをどう思う?」
俺は、i-podの中身を聞いてみた。
日本人の男性の声・・・・・・寺尾本人の声か?
自律訓練法に似た手法で肉体の緊張を取り去った上で、瞑想上の指示を与えているようだ。
自己催眠とも言えるか?
自分の音声を利用して、一定の瞑想手順を反復して、一種の『条件反射』を形成させる目的のモノのようだ。
条件反射化されるものには瞑想中の生理的反応、『丹光』のようなビジョンも含まれていた。


1583 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:02:03 id:kgX5MNas0

「面白いだろ?
元々は日本人の瞑想家が開発した手法らしいが、これはその応用だな。
色々と工夫が凝らされているようだ」
京香が続けた。
「言葉じゃなくて、バックグラウンドの音声を注意して聞いてみて。
・・・・・・多分、貴方には判るはずよ?」
バックグラウンドには脈動するような独特な金属音が流れていた。
・・・・・・深い瞑想状態に入ったときに聞こえてくる『音』
マサさんから『導通』の儀式を受けた時に聞いた『音』にも良く似ている。
「聖音か?」
「そう。・・・・・・呼び名は色々有るけれど、これを作った人たちはアストラル・サウンドと呼ぶらしいわ。
個人の脳波や心拍をサンプリングしてシンセサイザーで作った音のようね。
機械的な反復による瞑想の条件反射化に加えて、外部から強制的に深い階層まで瞑想をコントロールする目的のようね・・・・・・
自力の瞑想では、薬物を使っても同じ瞑想状態を再現する事は難しいから・・・・・・これは、良く出来ているわ」
「しかし、どうなんだろう?そんなことで瞑想をコントロール出来るのかね?
仮に出来たとしても、肉体的なコンディションを無視して無理やり深い瞑想に入るの危険なのでは?
例えば、間違って『三昧』に入り込むと戻って来れなくなるんじゃないかな?」
「そうね。・・・・・・その、成れの果てが今の彼ね」


1584 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:03:35 id:kgX5MNas0

寺尾の部屋からは、『瞑想指示』を吹き込んだ大量のカセットテープが見つかっている。
どうやら、似たような手法の『行』を行う団体と接触して、寺尾は再び『行』の世界に引き込まれたようだ。
住職は言った。
「彼の陥っている魔境は深い。
一度『行』の世界にのめり込むと、逃れても逃れても『行』が人を引き戻しに掛かってくる。
彼はその典型例と言えるだろう。
全てを奪い尽くしながら人を捕らえ、場合によっては命までも喰らい尽くす・・・・・・
一度堕ちた魔境から逃れることは、一生を掛けた大事業なのだよ」
 
救済活動に勤しむ住職や寺尾の両親を前に口にこそ出さなかったが、俺には寺尾の『救済』は不可能に思えた。
見たところ、既に彼は『向こうの世界』から戻って来れなくなっており、戻ってくる生命力も残っては無さそうだった。
そして、マサさんに続いてi-podの音声を文章に書き起こした物を読んだ時、俺の背中に嫌なものが走った
俺もマサさんも敢えて口に出す事はしなかったが、寺尾の『行』には非常に危険な、一種の『奥義』に属するものが含まれていたのだ。
 
「マサさん、あれは・・・・・・」
「ああ、『移入の行』だ。自己流であそこまで到達したのなら大したものだ。とんでもない天才だよ。
・・・・・・だが、全くの自己流だったとしたら不味いな。行の『禁則』は知らないだろうからな」
 
『移入の行』は、俺がイサムとパワースポット巡りのツーリングに出た際、『治療』の最終段階として行ったものだ。
『行』の内容を簡単に言えば、イメージの力によって『もう一つの体=幻体』を作り出し、『幻体』に意識を移入するというものだ。
『幻体』とは、瞑想により没入した精神世界における肉体といった存在だ。
この幻体を使って『行』を行うのだ。
俺は、この『幻体』を用いた行で、厳しく禁じられていた『丹田から尾底に気を送り込む行』を行い、『二次覚醒』を起こす事に成功した。
要するに、これまで起こらないように必死に抑え続けてきた『二次覚醒』に伴う肉体的損傷を『幻体』に肩代わりさせたのだ。
マサさんやキムさんの元で続けてきた修行や、シンさんに指定されたパワースポットを巡っての『気の取り込み』はその為の準備と言えた。
この『移入の行』によって、ようやく俺は修行を辞めても大丈夫な状態に戻る事が出来たのだ。


1585 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:05:02 id:kgX5MNas0

『移入の行』により没入する世界は、現実世界と殆ど見分けの付かない非常にリアルな世界だ。
視覚や聴覚だけでなく、味覚や触覚・・・肉体に備わった全ての感覚があるのだ。
むしろ、その感覚は現実世界のそれよりも冴えてクリアでさえある。
現実世界と異なるのは、精神世界に属する世界であるが故に時間感覚が存在しないこと。
そして、望みさえすれば何でも叶うと言う事だ。
宗教的修行者は、この精神世界で『師』を得る事が出来る。
そして、この精神世界における『師』を得る上で、宗教的な信仰が大きな力となる。
祈りを捧げ続けた『神』の存在が『師』を生み出すのに必要なイメージの核となるからだ。
他方で、精神世界であるが故に、その人の持つ欲望がダイレクトに反映される。
いや、欲望の反映された世界が『移入の行』により『幻体』が活動する世界と言えるだろう。
それ故に、宗教的修行者たちは持戒し、厳しい行や宗教的修行によって欲望を昇華し、止滅させなければならないのだ。
俺の場合は、宗教的な『行』としてではなく、肉体の代用、或いは身代わりとして『幻体』を利用したかっただけなので、持戒や欲望の昇華は問題ではなかった。
繋がった『世界』が地獄であろうが餓鬼であろうが問題はなかったからだ。
唯一つ厳重に注意されたのは『移入の行で没入した世界で肉体的な欲望を果たしてはならない』と言うものだった。
『幻体』を用いて没入した『世界』は精神世界に属することから、欲望を果たす事による『快楽』は肉体次元とはまるで比較にならないのだ。
その強烈な『快楽』ゆえに、食欲や肉欲といった肉体的欲望を果たすと『幻体』に移入した意識・・・魂が幻体に定着し、現実世界に戻って来れなくなるのだ。
マサさんの言う『禁則』とは、この事を指す。
そして、心神喪失状態のまま意識の戻らない寺尾は、『禁則』を知らないまま瞑想世界の『快楽』に囚われてしまっている可能性が高かったのだ。


1586 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:06:49 id:kgX5MNas0

大凡の事情が説明された後、山佳京香に俺は言った。
「それで、俺にどうしろと?俺に出来る事は無さそうだけどな」
京香が答えた。
「琉華『先生』の指示を伝えるわ。
先生が準備を整えて此処に来るまで、貴方には『それ』を使って瞑想を行っていて欲しいと言う事よ。
私はそのフォローの為に此処に送り込まれてきたの」
「?」
怪訝な顔をする俺にマサさんは言った。
「鉄壷の供養を覚えているか?以前お前に遣らせた『同化の行』の初歩だ。
琉華がお前に遣らせようとしているのは、恐らく、その応用・・・『移入の行』との合わせ技だな。
彼と同じ瞑想行を行って『慣らし』てから、彼に対する『同化の行』をやらせようとしてるのさ」
「そんなことできるんですか?」
「そう難しい事じゃない。霊能者や霊媒師にとっては初歩的な『技術』だ。
・・・・・・だが、これは俺が遣らせて貰う。
ダメだと言うなら、この話はご破算だ。俺は、コイツを連れてこの場を立ち去る」
「私の一存では決められないわ。琉華先生に聞いてみる」
京香は天見琉華に電話を掛けた。


1587 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:07:52 id:kgX5MNas0

どうやら、天見琉華は、マサさんの申し出を飲んだらしい。
マサさんは寺尾のi-podを使って瞑想を開始した。
この瞑想法の原型は、今では余り見かけなくなったテープレコーダーを利用して行うものだった。
瞑想状態に誘導する基本的なシナリオから、個人の瞑想段階に応じて編集を重ねる。
テープの編集を繰り返して『育てる』ものらしい。
寺尾のそれは、かなりの段階まで『育った』完成形に近いものだったようだ。
一回の瞑想に要する時間は2時間弱。
他人のリズムや音声によるものだった為か、マサさんをしてもかなり消耗が激しかった。
俺と京香による気の注入を行いながらでも朝晩1回づつ、1日2回が限界だった。
だが、10日ほど繰り返すと慣れてきたのか、1日3回をそれほど消耗する事無くこなす事が出来るようになった。
半月が経過した、天見琉華が来る前日の事だった。
マサさんが言った。
「琉華がお前に、本当は何をさせようとしていたか判るか?」
「いいえ」


1588 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:09:01 id:kgX5MNas0

「お前にも判っているんだろ?
彼の両親には悪いが、寺尾はもう助からない。俺達が此処に来た時点で手遅れだった」
「でしょうね・・・・・・。
で、琉華のオバサンは俺に何をさせようとしていたんですか?」
「文字通り『同化』だよ。同化と言うよりは『入れ替わり』だな。
思考や精神を持った『人間』に対する『同化の行』は、お前が思っている以上に危険なんだよ。
狂人と接触している人間の精神が徐々に狂って行くって話を聞いたことはないか?
自我の弱い普通の人間の精神が、強烈な『狂人の精神』に侵食されて起こる現象だ。
深い瞑想状態・・・・・・潜在意識の階層では人間の自我の境界、防壁は曖昧になる。
寺尾の瞑想法は・・・・・・多くの瞑想行がそうなんだが、あの手法は自我の境界が消失するような深い瞑想状態でも自我を保つ為の訓練だ。
顕在意識での思考を潜在意識、或いは集合的無意識の階層まで送り込む手法でもある。
寺尾は長年『瞑想行』を続けていて潜在意識下で『意識』を保つ力が強いんだよ。
そんな奴に、精神的に丸裸のお前が『同化』したらどうなると思う?」
「さあ・・・・・・寺尾の性格に近くなるとか?」
「そんなに甘くは無い。
奴に精神を『乗っ取られる』ぞ?並みの憑依なんて生易しいものじゃない。
『あっち側』から戻って来れなくなってる奴には渡りに船だ。逆に、お前が奴の繋がっている世界から戻って来れなくなるだろうな」


1589 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:10:26 id:kgX5MNas0

俺の背中にゾクッと冷たいものが走った。
「何のためにそんな?」
「さあな。実際遣ってみなければ判らない。
ただ確かなのは、琉華はお前を寺尾から何かを得る為の道具に仕立て上げようとしていた。・・・・・・使い捨てのな。
俺を呼びつけたり、お前と『気の交流』のある山佳京香を寄越している時点で薄々感付いてはいたんだが・・・・・・」
マサさんは深刻な表情で言った。
「恐らく、俺の力だけでは寺尾の繋がっている世界からは戻って来れないだろう。
そこで、お前に頼みたい。寺尾の中から俺を引き上げて欲しい。
やり方は簡単だ。俺に対して『移入の行』を行って、俺とお前が共有する強烈なイメージを利用して俺を引き上げてくれれば良いのだ。
イメージは・・・・・・あの『井戸』を使え」
更にマサさんは続けた。
「もし、俺が戻って来れなかったら・・・・・・目覚めなかった時は、俺を置いて、お前は直ぐにこの場から立ち去れ。
逃げるんだ。出来れば、この国から立ち去って二度と戻ってくるな。
もしもの時の事は、『ヤスさん』に頼んである。
琉華はお前を使い捨てにしようとした。つまり、組織はもうお前に利用価値はないと判断しているという事だ。
組織にとって無価値なだけではなく『邪魔』と判断されたら、場合によっては消されるぞ?」
 
翌日の夕方、天見琉華はやってきた。


1590 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:11:28 id:kgX5MNas0

深夜0時に向けて、儀式の準備が着々と進められた。
寺尾を囲むように四体の仏像が置かれた。
住職によると「四天王だな」と言うことだった。
東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天・・・四方を護る守護神の視線が寺尾に集中していた。
琉華がマサさんに技法の説明をしている。
寺尾にi-podのイヤホンを嵌め、マサさんも同様に装着した。
マサさんが琉華を挟んで寺尾の横に横たわった。
琉華が中央で二人の胸に手を置いて座る。
深夜0時、同時に2台のi-podのスイッチを入れ、琉華が『マントラ』を唱え始める事によって『儀式』は開始された。
儀式開始2時間が経過しようとした頃、『瞑想終了』の指示が流れる前にi-podは停止された。
此処からが本番だ。
午前3時を過ぎた頃、琉華のマントラ詠唱は止まった。
やがて、部屋の中に異変が起きた。
この民家の玄関を潜った時に感じた臭気・・・・・・獣臭とも死臭とも知れない悪臭が漂い出したのだ。
この悪臭には、家主や寺尾の両親も気付いたようだ。


1591 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:12:25 id:kgX5MNas0

寺尾の母親が不意に「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。
壁際の本箱のガラス戸に人影が写っていた。
真っ青な顔をした血塗れの女の姿だった。
家主の男性が「うわっ」と声を上げた。部屋のあらゆる物陰から、気味の悪い顔をした沢山の男女がこちらを睨んでいた。
こんなあからさまな『霊現象』は俺も初めてだった。
俺の頭は混乱の極みだった。
悲鳴を上げたり失禁しなかったのは我ながら上出来だ。
もし、一人でいるときにこの状況に遭遇したら正気を保っていられる自信はない。
俺は琉華達の方を見た。
寺尾の体から、目では捉えきれない『何か』が湧き出していた。
これは見覚えがある・・・『魍魎』・・・以前、山佳京香の体から湧き出してきたものと同質の物の怪だ。
寺尾の体から湧き出した『魍魎』は床と壁を伝って天井に集まった。
そして、家主も寺尾夫妻も、京香も俺も天井に目を奪われた。
天井一杯に巨大な人の顔が浮き出していた。
俺達はパニック寸前だった。
その瞬間、『ぱぁん!』と大きな拍手の音が室内に響いた。
住職だった。
拍手の音が響いた瞬間、部屋からは臭気も『顔』も、魍魎も消え去っていた。
寺尾を中心に漂っていた嫌な空気の全てが霧散していた。
ガラッと変った部屋の空気に俺達は困惑した。
住職によると『場の空気』に飲まれて、俺達は同じ幻覚を見ていたらしい。
住職の拍手によって『夢見』の状態から目覚めさせられた、と言うことのようだ。


1592 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:13:37 id:kgX5MNas0

俺は住職と京香に寺尾と琉華の処置を頼んで、マサさん対する『移入の行』を行った。
『移入の行』自体は事前にシミュレーションしていた事もあってすんなり進んだ。
『リンガ・シャリラ』の瞑想状態に入って道を辿った。
だが、井戸が見つからない。
そう、俺は『井戸の地』への道筋を知らないのだ。
焦った。
だが、心が乱れれば『移入の行』は解けてしまう。
俺は「落ち着け、落ち着け!」と自分に言い聞かせた。
道を辿っていると、いつの間にか見覚えの有る砂利だらけの道を歩いていた。
何処からか複数の子供の笑い声が聞こえる。
声のする方に向って歩いていると、不意に背後から、耳許に『アッパ』という生々しい男児の声が聞こえた。
驚いて振り返ると、其処には、あの井戸があった。
俺は井戸に蓋をしている黒い石を抱えた。
恐ろしく重かったが何とかどける事が出来た。
恐る恐る井戸の中を覗いた。
井戸の中には、真っ黒なドロドロとした『闇』が詰まっていた。
俺はマサさんの名を有らん限りの大声で呼んだ。


1593 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:15:20 id:kgX5MNas0

井戸の闇の中から白い人間の腕が出てきた。
俺は、その腕を有らん限りの力で引き上げた。
だが逆に、俺は井戸の中に引きずりこまれた。
無数の手が俺を井戸の底へと引き込む。
目の前が真っ暗になって、俺は意識を失った・・・・・・。
 
どれくらいの時間が経ったのか、俺はマサさんの胸に手を置いた状態でマサさんの横に座っていた。
何時間も経った気がしたが、俺がマサさんに対する『移入の行』を始めてから1時間も経ってはいなかった。
マサさんは、未だ目覚めてはいない。
『ダメだったか・・・・・・』そう思った瞬間、マサさんが目を見開いた。
琉華がマサさんに声を掛けた。
「どうだった?」
マサさんが頭を抑えながら言った。
「沢山の子供達が・・・・・・何だったんだ、あれは?寺尾はどうなった?」
俺とマサさん、住職は琉華に促されて部屋を出た。


1594 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:16:28 id:kgX5MNas0

マサさんは青い顔をしてまだグロッキー状態だった。
再度、琉華がマサさんに何を見たか尋ねた。
マサさんは暫し考え込んでから答えた。
マサさんが見たもの・・・それは、数十人の子供達だった。
寺尾=マサさんは気付かれないように子供達を観察していた。
子供達は何かを話していたが、何を話しているのかは判らなかったようだ。
『瞑想世界』で見聞きした事を顕在意識下に持ち帰る・・・・・・覚醒後も覚えているには一定の精神操作が必要だ。
マサさんは『精神操作』を行った。
その瞬間、子供達の視線がマサさんに集中した。
『しまった!』と思ったのと同時に突然『何か』が現れ、マサさん=寺尾を喰った。
喰われた瞬間、マサさんは意識を失ったと言う事だ。
マサさんは琉華に尋ねた。
「あれは、何だ?」
「はっきりした事はまだ言えない・・・・・・敢えて言うなら『新人類』・・・私達とは違う新しい人間。
肉体的・物質的には判らないけれど、霊的・精神的にはホモ・サピエンスとは別種の人類かも知れない、そう言う存在よ」


1595 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:17:32 id:kgX5MNas0

琉華は、事のあらましを話し始めた。
 
天見琉華は、知り合いの霊能者からある老夫婦の紹介を受けた。
面会した時、その老夫婦は何かに酷く怯えていた。
老夫婦の『恐怖』の対象は、まだ幼い孫娘だった。
孫娘の父親は失踪していた。
夫の失踪後、娘が子供を連れて実家に戻ってきたが、間もなく自殺している。
実家に戻ってきた頃からノイローゼ気味で、孫娘に酷く怯えていた様子だった。
そして、老夫婦もまた、娘の自殺後、孫娘の『異常さ』に気付いた。
ある宗教団体の祈祷師に孫娘に取り憑いた『悪霊』を祓う為の祈祷を依頼した。
だが、孫娘の異常さは『憑依』によるものではなかった。
祈祷師に紹介された霊能者を通じて天見琉華が紹介された。
孫娘を視た霊能者が、この娘が琉華達の探している『新しい子供』ではないかと疑いを持ったからだ。
老夫婦と面談した琉華は、知り得る限りの情報を老夫婦から聞き出した。
そして、孫娘との面談の日を取り決めた。
老夫婦は一刻も早く、出来ればその日のうちにでも孫娘を琉華に引き渡したい様子だったらしい。
だが、『霊視』を行う約束の日の直前、孫娘が事故死した。
マンションのベランダから転落死したらしい。
琉華たちは老夫婦と接触しようとしたが、警察の取調べが続き、なかなか接触できなかった。
ようやく面談のアポを取ったが、老夫婦は台風で増水した川に乗っていた車ごと転落し、死亡してしまった。
周囲では、孫娘を死なせた事を苦にしての心中ではないかとも噂されたようだ。


1596 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:19:20 id:kgX5MNas0

『新しい子供たち』を知る為の糸口は失われた・・・と思われたが、意外な所から切れた糸が繋がった。
山佳京香から、住職の許を訪れた寺尾夫妻の話がもたらされたのだ。
彼らの息子こそが、問題の孫娘の失踪した父親、寺尾昌弘だったのだ。
 
「俺にはいまひとつピンと来ない話だが、要するにアンタが寺尾から娘について・・・・・・『新しい子供達』の情報を得ようとしていた事は判った。
だが、何で俺とマサさんが呼び出されたんだ?
俺では明らかに力不足だし、マサさんには関わりの無い話だろ?
其処の所の納得のいく説明をして貰いたい」
「それには、まず、彼に目を覚まして貰わないとね。
とりあえず、彼を現実世界に引き戻す為の道筋は付いたわ。
京香にマサ、それにアナタにも手伝って貰うわよ。
彼は『旧世代』の大人で、『新しい子供達』と精神世界で接触した、私の知る範囲では唯一の人間だからね」


1597 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:20:50 id:kgX5MNas0

マサさんの『術』によって『道筋』を付けられた寺尾は、琉華の術によって意識を取り戻した。
だが、衰弱が激しく、話の出来る状態に回復するには俺とマサさん、京香による三交代で三日三晩『気』の注入を行い続けなければならなかった。 
大量の『気』の注入によって一時的に回復した寺尾は琉華の質問に答える形でこれまでの経緯に付いて話し始めた。
 
寺尾家は厳格な教育一家だったようだ。
物心付いた頃から勉強ばかりで、同年代の子供たちと遊んだ記憶は殆ど無かった。
多忙な両親は寺尾を同居していた父方の叔母に任せ切りで、彼の記憶では父に褒められた事も、母に甘えたことも無かった。
更に、寺尾の叔母には家族も知らなかった『特殊な性癖』があった。
頼るべき両親には勉強勉強と責め立てられ、叔母からは異常な欲望の捌け口にされた寺尾にとって、安らぎの場所であるべき家は牢獄だった。
いつの頃からか、そんな『牢獄に閉じ込められた』昌弘少年の許を毎晩のように訪れる女性が現れるようになった。
彼女は話し疲れるまで彼の話を聞き、父の代わりに褒めてくれた。
彼は母の代わりに彼女に甘え、話し疲れると彼女の胸に抱かれながら眠りに就いた。
少し考えてみれば、その女性が実在しない『幻影』であることは子供だった彼にも判った。
だが、彼女の『存在』が昌弘の救いとなっていたのは確かだった。
寺尾は言った。
「彼女の存在が無ければ、僕は生きてはいられなかっただろう」と。
長ずるに従って『彼女』の出現頻度は少なくなっていき、中学受験が終わるとピタリと現れなくなったそうだ。
難関を突破して、厳格な父親が彼をはじめて褒め、母親が彼を抱きしめた夜だった。


1598 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:22:42 id:kgX5MNas0

『幻の女』が消えてから、寺尾は『魂の渇き』に苛まれた。
自分を追い込めば再び彼女が現れるかもしれない、そう思って猛勉強に励んだ。
全国的な秀才揃いのその学校でもトップクラスの成績を維持し続けたが、『彼女』が姿を現すことは無かった。
そんな彼が、偶然一冊の本を目にした。
クラスメイトが持ち込んだオカルト系の雑誌だったようだ。
普段の彼なら「くだらない」と言って、直ぐに読むのを止めただろう。
だが、その中に印象的なストーリーが書かれていた。
山で一人暮らしする孤独な男が、寂しさの余り女の『幻影』を生み出し、やがて『幻影』に魂が宿った。
男は魂の宿った『幻影』を妻として幸せに暮らしていたが、ある日突然に妻は姿を消した。
悲しみに打ちひしがれた男は人里に下り、悟りを開く為に仏門に入った。
やがて、修行を重ねた男は妻の魂と再会を果たした・・・・・・と言った話だったらしい。
他愛の無い話だが、寺尾には強烈なインパクトを与えたようだ。
『彼女』が自分の精神が生み出した『幻影』であるなら、自己の『精神』の探求によって再会を果たせるのではないか?
彼女の『幻影』に宿っていた『魂』と接触する方法が有るのではないか?
寺尾は心霊や瞑想、超能力開発関連の書籍を読み漁った。
『方法』を模索する中で興味深い手法に行き当たった。
例のテープレコーダーを利用した瞑想法だった。
本に従って瞑想を行ったが、中々上手くは行かなかった。
試行錯誤の上、瞑想中に様々な光やビジョンを目にするようになったが、それと同時に強烈な恐怖心が沸き起こった。
瞑想を行う事に底知れない恐怖を感じるのだが、瞑想を辞められない。
『恐怖心』は瞑想を行っていない時にも沸き起こった。
やがて、彼は自殺未遂事件を起した。
得体の知れない何かに追われ、近所のマンションの廊下から飛び降りたのだ。
再三の両親の説得と『瞑想』に対する恐怖心から、瞑想行を辞めようと思い立った翌日の事だった。


1599 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:23:57 id:kgX5MNas0

寺尾は『瞑想』を止められなくなった。
恐怖から逃れる為に恐怖の対象である『瞑想』を続ける・・・・・・理解し難い、まさに『魔境』に嵌った状態と言えるだろう。
寺尾は『瞑想法』の効果自体には確信があった。
この『瞑想法』は透視能力・・・・・・所謂『天眼通』を得る事を目的とした手法として紹介されていたが、『願望達成法』としても効力があった。
寺尾の手法は、所期の目的は得られていなかったが、『願望達成法』としては目覚しい効果があったからだ。
彼は手法自体ではなく、中身・・・・・・『シナリオ』に改善の余地ありと考えた。
彼は、自分の『瞑想法』をカスタマイズする為に更に様々な書籍、様々な団体の修行メソッドを研究した。
その過程で後に妻となる女性とその家族にも出会った。
やがて、幾つかの能力が開花し、宗教団体や修行団体の勧誘を受けるようになった。
だが、寺尾は特定の宗教団体に所属したり、特定の人物に師事しようとは思わなかった。
特定の宗派や教義、『指導者』と結び付いた『瞑想』は強烈な『洗脳』に成り得ること・・・・・・特に、自分の行ってきた手法が強烈な洗脳手法であることに気付いていたからだった。
やがて、寺尾は自らの『瞑想法』を完成させた。
『瞑想世界』で懐かしい『彼女』と再会したのだ。
寺尾は『瞑想世界』に耽溺した。
やがて、瞑想世界が彼の『生活の場』となった。
だが、ある日を境に寺尾は瞑想行を止め、現実世界に生きるようになった。


1600 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:25:05 id:kgX5MNas0

何故、瞑想行を止め『瞑想世界』から戻ってきたのかについて、寺尾は中々話そうとはしなかった。
だが、やがて寺尾は重い口を開いた。
先に述べたように、修行者の『瞑想世界』における禁則事項が幾つか有る。
その中で特に重要なものとして、根源的な生物的欲求・・・・・・食欲や性欲を『瞑想世界』で満たしてはならないというものがある。
精神世界に属する『瞑想世界』での快楽は、肉体と言うフィルターを通さない分ダイレクトで強烈な快感となり依存性が高いのだ。
いや、依存性などと言う生易しいものではない・・・・・・垣間見た『世界』に魂のレベルで結び付いてしまうのだ。
この性質を逆用しようと言う宗派も存在する。
『神』と交歓して神界と繋がろうという邪宗だ。
だが、『行』のみで『持戒』や『功徳』の無い者が繋がる世界は、殆どの場合『地獄』や『餓鬼』といった低い世界となる。
寺尾は『瞑想世界』で、再会した『女』と夫婦になった。
現実世界で女性経験の無かった寺尾は瞑想世界での『妻』との行為に耽溺した。
だが、かつての山佳京香がそうだったように、やがて寺尾も自分の繋がっている『世界』の本当の姿を思い知る事になる。


1601 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:26:05 id:kgX5MNas0

瞑想世界で寺尾は子を設けた。
『行』により瞑想世界と現実世界を行き来するたびに、『娘』は驚くほどの速さで成長した。
そして、娘が12・3歳の姿まで成長した時にそれは起こった。
『娘』が『妻』を殺して喰ったと言うのだ。
それだけではなく「お父さんも食べて」という娘の言葉に逆らえずに、娘と一緒に妻の『肉』を貪ったというのだ。
血の滴る妻の『肉』は恐ろしく美味で、一度口にすると止まらなかったそうだ。
更には、妻の肉を貪りながら寺尾は娘とも交わった。
妻の時とは比べ物にならない快楽が寺尾を捕らえた。
妻の肉を喰らい尽くし、娘の中に精を放ちつくした瞬間に、恐ろしいほどの渇きと共に寺尾は『正気』に戻った。
自分の居る『世界』の本当の姿を目の当たりにしたのだ。
 
マサさんが静かに言った。
「餓鬼道だな」
寺尾は瞑想行を止め、現実世界に戻った。
放棄していた学業を再開し、遅れ馳せながら就職活動を行い、就職後は仕事に邁進した。
寝る間も惜しんで・・・・・・いや、眠りから逃げるように。
瞑想を止めても寺尾は悪夢に襲われ続けた。
毎晩のように『娘』が現れ、寺尾と娘は交わりながらお互いの肉を貪り合っていたのだ。


1602 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:27:12 id:kgX5MNas0

そんなある日、寺尾は数名の派遣社員の中に知った顔を見出した。
海外のセミナーに参加した折に世話になった日本人家族の娘だった。
再会は偶然ではなかった。
寺尾の能力に目を付けた『団体』がこの女性を送り込んできたのだ。
寺尾の勤め先の会社は、この女性の所属している団体の背後にいる宗教団体の信者が多数潜り込んでいた。
女は、寺尾の置かれている状況を有る意味寺尾本人以上に把握していた。
女を通じて、女とその家族の所属する団体の幹部に寺尾は面会した。
幹部の女性は寺尾に言った。
寺尾が繋がった『世界』と、向こうの世界で設けた『娘』との縁を切る方法を教えようと。
その対価として、寺尾が完成させた『修行法』の全てを提供し団体に協力しろ・・・・・・それが、『団体』と寺尾の契約だった。
契約に従い寺尾は『修行法』を提供し、団体の指示に従って結婚した。
結婚して初夜を迎えると、それまでのことが嘘のように悪夢を見なくなり、夢の中に『娘』も現れなくなった。
やがて寺尾は妻を伴って海外に赴任した。


1603 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:28:20 id:kgX5MNas0

「赴任中、何があったの?」天見琉華の質問に寺尾は答えた。
寺尾はある人物に引き合わされた。
初老の日系人男性だったが、寺尾夫妻が所属する団体の『親団体』でかなりの地位に在る人物だったようだ。
団体の幹部は興奮気味に「直接面会できるだけで、非常に名誉な事だ」と言ったそうだ。
寺尾夫妻は、その人物に命じられて日にちと場所を変えて3人の霊能者・・・西洋風に言うなら『魔道師』或いは『魔女』といった類の人物と面談させられた。
そして、再び日系人紳士に呼び出されて命じられたそうだ。
『儀式と手順に従って子を設けろ』と。
団体の指示に従って結婚した寺尾夫妻だったが、夫婦仲自体は悪くなかった。
自由意志ではなく他人の命令で結婚した事に後ろめたさを感じていた夫婦にとって『子を設けろ』と言う命令は、口実としてむしろ望む所だった。
複雑な儀式を繰り返しながら、一定の手順による子作りに励んだ寺尾夫妻は念願の子を授かった。
娘は儀式を行った『魔女』の予想した日に、月足らずだったが自然分娩により誕生した。
喜びに包まれながら寺尾は保育器の中の生まれたばかりの娘に会いに行った。
だが、寺尾の喜びは次の瞬間、恐怖と絶望に変った。
寺尾が近付くと眠っているはずの娘が目を開き、頭の中に直接響く『不思議な声』でこう言ったというのだ。
「見つけたわよパパ。今度は逃がさないわ」
恐怖に慄いた寺尾は『魔女』に相談した。


1604 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:29:15 id:kgX5MNas0

『魔女』は寺尾に言った。
寺尾の娘は、『特別な子供』だと。
この『特別な子供』は同じような子供たちと精神の深奥で繋がっていて、相互にコミュニケーションを取っている。
この子供たちから『情報』を引き出せば、解決の糸口が掴めるかも知れない。
『瞑想行』を行い、子供たちが『精神の深奥』で何を話し合っているのか探りなさい・・・と。
寺尾は、再び瞑想行を開始した。
瞑想世界で寺尾は17・8歳くらいに育った『娘』と交わり続けた。
悪夢のような『苦行』だった。
だが、『夢』ではなかった。
まだ言葉も覚束ない幼い娘が頭の中に響く『不思議な声』で言ったそうだ。
「昨夜は良かったわ、パパ。今夜も抱いて・・・」
寺尾は、幼い我が子に対する恐怖と殺意を徐々に蓄積させて行った。
そして、遂に限界に達した寺尾は娘の首に手を掛けた。
間一髪のところで妻に見咎められた寺尾は、そのまま妻子を捨てて出奔した。
出奔と同時に寺尾は瞑想行を止めた。
だが、長年の『行』の成果、いや後遺症の為、最早、『行』を行わなくてもちょっとした切っ掛けで寺尾は深い瞑想状態に落ち込むようになっていた。
ナルコレプシーのように瞑想状態に落ち込む寺尾は、偶然知り合った外国人ホステスの部屋に潜り込んだ。
やがて、寺尾は落ち込んだ『瞑想世界』で『魔女』の言っていた『話し合う子供たち』を見つけた。
だが、同時に『瞑想世界』から戻ってくる事が出来なくなった。
心神喪失状態の寺尾は、外国人ホステスが入管に摘発されるまで彼女の介護を受けながら『肉体の死』を待つだけの存在に成り果てていたのだ。


1605 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:31:00 id:kgX5MNas0

「瞑想世界であなたは何を観たの?子供たちはどんな事を話していた?」
琉華の質問に首を僅かに振りながら寺尾は弱々しく答えた。
「思い出せない・・・・・・だけど、あの子供たちは僕たち大人に対して敵意を持っている。
そんな気がする。
恐ろしい。あの世界には戻りたくない!助けてくれ!」
寺尾は何度か『瞑想世界』と『現実世界』を行き来した後に昏睡状態に陥った。
その後、2週間ほど収容先の病院で生き続けたが遂に目を覚ます事無く息を引き取った。
極度に死を恐れていた寺尾の魂の行き先は誰にも判らない・・・・・・。
 
琉華と俺の話を聞き終わるとキムさんが言った。
「そうか・・・・・・
マサの奴が姿を消したのはその後だな?マサの行き先に心当たりはないのか?」
「ありません。『ヤスさん』にも問い質しましたが、マサさんの行方は判らないそうです」
キムさんの視線に琉華が答えた。
「私が知る訳ないでしょう?」
「だろうな・・・アイツは、アンタ達から逃げたかったのだろうからな」


1606 :チルドレン ◆cmuuOjbHnQ:2012/06/21(木) 06:31:59 id:kgX5MNas0

暫しの沈黙の後、キムさんが琉華に尋ねた。
「どうにも判らない・・・アンタ達の言う『新しい子供達』って何なんだ?
俺達みたいな『大人』に敵意を持っているって、どういう訳なんだ?」
「私にも判らないわ。
でもね、精神構造・・・『魂の基本構造』が私たちと根本的に違うような気がする。
私たち旧世代の『能力者』の力が全く通用しないからね。
でも、判ってきた事もあるわ」
「彼らが前世の記憶を持って生まれてきている事、現実世界と深い階層の精神世界の境界がない事。
個人としての意思のほかに、彼ら全体として一つの意思を持っていること・・・・・・
彼らには、私たち大人の意思や思考の全てが、潜在意識の段階から全て見えていること。
・・・・・・彼らにとって、私たちの意思や行動をコントロールする事など、造作もない事かもね。
それと、人為的に彼らのような子供を作ろうとしている集団があること」
「厄介だな・・・・・・そんな連中が俺達『大人』に敵意を持っていると言うのか?
そもそも、なんで現れたんだ?」
俺は、思いつきで言ってみた。
「進化だとしたら、『新しい種』だとしたら、『古い種』である俺達を淘汰する為じゃないかな?
アウストラロピテクスネアンデルタール、新人類の登場と共に旧人類は滅んできたわけだし・・・・・・
ホモサピエンスだって・・・・・・取って代わろうとする『新しい者』が、『古い者』に敵意を持つのは当然なんじゃないかな?」
キムさんは黙り込んでしまった。
天見琉華と弟子の女性が俺の顔を見ていた。
 
寺尾昌弘の葬儀に出席して別れた後、マサさんは突然に姿を消した。
木島氏や組織の人間が血眼になってマサさんの探索を続けたが、マサさんの行方は未だに判らない。
 

おわり

 

黒い御守り

1403 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:35:32 id:MrlAqaA.0

俺は、金融業を営むオム氏から、大学生の娘さんのガードを依頼された。
最近、オム家の庭に猫の生首が放り込まれたり、家の壁に『ひとごろし』と落書きがされていると言う事だった。
商売柄、オム氏は人の恨みを買い易い。
以前、悪質なストーカー被害に遭った事の有る長女は怯え切っており、家から足を踏み出せない状態に陥っていた。
それだけなら、まあ、よくある話だし、俺にお鉢の廻ってくる話でもなかった。
オム夫人は、最初に猫の首が放り込まれる数ヶ月前から、毎晩のように悪夢に魘されていた。
見知らぬ男に娘が刃物でバラバラに切り刻まれる夢だったらしい。
なんとか娘を助けようとするのだが、夫人は全く身動きが取れず、成す術も無く愛娘がバラバラに解体されて行く様子を見せつけられるのだ。
『・・・・・・ただの夢だ』、そう思ってオム夫人は夫にも『夢』の話はしていなかった。
だが、ストレスからだろう、体重が7kgほど落ち、貧血で倒れたりするようになった。
悪夢は続き、そのまま新年を迎えた。


1404 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:37:56 id:MrlAqaA.0

オム夫人は新年のバスツアーに参加して、初詣で訪れた関東のある寺で気になることを言われた。
参拝客を相手に赤い着物を着た占い師が占いをしていたらしい。
娘が占って欲しいと言い、オム氏が金を出して占いが始まった。
占いは15分ほどで終わり、3人はその場を立ち去ろうとした。
去り際に占い師が声を潜めて夫人にだけ聞こえるように言った。
奥さん、長い間水子の供養をしていませんね。
山門の前でお守りを売っているから、売り子の中で一番若い男性からお守りを買いなさい。
買ったお守りは身に付けて、1年間、絶対に手放さないように」
オム夫人は、『水子』と言う言葉に一瞬ドキッとした。
まあ、中年の女性に『水子』という言葉を投げかければ、結構な確率で思い当たる人はいるだろう。
こういう場所だから、的屋や露天商同士で客の融通でもしているのだろう・・・・・・そんな風にあまり気にはしていなかったそうだ。
境内は物凄い人だかりで規制が行われていた。
観光バスの集合時間もあるので、護摩を郵送で頼み、本堂で賽銭を投げると、そのまま階段を下った。
本堂を出て階段を下りると後戻りできない。
山門の手前で夫人はオム氏に「お父さん、お守りを買って行こう」と言って、大きな人だかりの出来た露店に足を向けた。


1405 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:39:39 id:MrlAqaA.0

露店には8人ほどの売り子がいた。
どの店員も中年以上で、半分は老人といって良い年代だった。
一番端の男だけ20代後半から30代半ばといった年恰好だった。
先ほどの占い師と同じくらいか・・・女占い師のオトコか何かか?
「お守りを頂けるかしら」
「持つ方の干支は?判らなければ何年生まれかでも結構です」
男がゾッとするような、射すくめるような鋭い視線を向けた。
『何なの、この人?』
3人分の干支を伝えると、男は黒い札を3枚選び出し、目の前に置かれた守り袋の中に入れた。
色とりどりの袋があり、他の客は好きな物を選んでいたが、男はどれにするかも聞かず赤い袋を選んだ。
お守りを入れた包装用?の紙袋には、中身の干支がペンでそれぞれに書き込まれていた。
オム夫人は完全に気分を害していた。
『ふざけた店員ね、頭にくるわ!』
娘と夫が買ったものと一緒に会計を済ませると、3人は山門を出た。
仲見世で土産の葛餅を買うと、駐車場に向った。
次の目的地の中華街へ向うバスの中で、先ほど買った御守りを検めると、一つ余分なものが入っていた。
袋には、同じペンの似た筆跡で『昭和XX年・Y年』と書いてある。
他の客の物が混ざったのだろうか?
払った代金には過不足は無かったので『後で処分すれば良いわ』と、余分な御守りの事は忘れる事にした。


1406 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:41:06 id:MrlAqaA.0

ツアーが終わり、オム一家は逗留していた親戚宅を後にした。
地元に戻って暫くは平穏な日々が続いた。
お参りの効果があったのか、あれほど悩まされた悪夢もピタリと見なくなった。
やれやれと思って部屋を掃除していると、初詣の時、『間違って入っていた』御守りが出てきた。
紙袋の中を見ると『悪趣味な』黒い御守り袋が出てきた。
御守りを見ると、あの『頭にくる店員』のことが思い出された。
『他人のお守りを持っていても仕方がないわ』そう思って、オム夫人は黒い御守り袋をゴミと一緒に捨てた。
やがて2月に入った。
節分が過ぎた週だった。
オム夫人は再び『悪夢』に襲われ始めた。
以前より鮮明な悪夢だった。
娘を助けようとするのだが、何かに足を固定されていて動けない。
そして、風呂に入っていて気付いた。
足に覚えのない痣が出来ている。
痣は日に日に濃くなって行った。
不安になったオム夫人は、痣と夢の事をオム氏に話した。
オム氏は「痣はどこかにぶつけたんだろ?後になって青くなる事もあるし・・・お互い若くはないからな。
夢は夢だよ、気にするな。気にするから何度も同じ夢を見るんだよ」そう言って、あまり真剣には取り合わなかった。
だが、猫の生首が庭に放り込まれるとオム氏の態度は一変した。


1407 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:42:29 id:MrlAqaA.0

自営業者には、『縁起を担ぐ』者が多く、人の恨みを買っている自覚からか、祟りや呪いと言った話に敏感な人がかなりいる。
キムさんは、そう言った自営業者の中では知られた存在だ。
オム氏は人を介して、キムさんに面会した。
キムさんは「どんなに都合の悪い話でも、思い当たる事は全て、包み隠さずに話して欲しい」とオム夫妻に言った。
オム夫人は占いや御守りの話も含めて、全てを話した。
オム夫人は、若い頃、堕胎の経験があった。
オム氏と出会う以前の話で、オム氏の知らなかった事実だった。
「捨てた『黒い御守り』がポイントだったな・・・・・・その占い師と店員、只者ではないだろう。
まずはその二人に当たってみよう」
キムさんは問題の寺を訪れた。
寺は閑散としていて、予想はしていたが問題の占い師も店員も・・・・・・御守りを売っていたという露店さえも無かった。
キムさんは、受付の人に聞いてみた。
当然、判らないという返事が返ってきた。
ただ、正月の露天商の仕切りは、檀家総代もしている人物がやっているらしい。
娘婿が寺の職員をしているから呼んでみようと言ってくれたそうだ。


1408 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:43:55 id:MrlAqaA.0

キムさんは総代という人物に会って、問題の店員の事を聞いてみた。
個人のプライバシーに関わる事なので教える事は出来ない・・・・・・と言う答えだった。
売り子の店員は、近所の老人と地方からの出稼ぎの人達で、年末から2月半ばまで働いているということだった。
問題の『若い店員』の名前などは教えて貰えなかったが、3月の震災で津波に襲われた地域から来ている人らしい。
安否の確認は取れていないという事だった。
占い師の女性は『管轄外』という事だったが、占いの元締めに金を払って店を開いているか、元締めの元で修行中の占い師の卵だろうという事だった。
占い師の元締めに、それらしき女占い師を尋ねたが、やはり、連絡先や消息は判らないという事だった。
そうなると、猫の生首を放り込んでいる人物を直接捕まえるしかない。
もちろん、その人物が呪詛を仕掛けているとは限らないが、思い当たる要素を潰して行くしかなかった。
キムさんはオム夫人を水子供養で実績の有る霊能者に紹介した。
その霊能者は、気になる事を言った。
オム夫人に水子の霊は憑いていない。が、強烈な恨みの念が纏わり憑いてる。
物凄く強い念らしいが、肝心の念の主が見えない。
ただ、悪霊の類ではなく、生きた人間のものである事は間違いないだろう、という事だった。


1409 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:45:44 id:MrlAqaA.0

俺は、キムさんの命を請け、オム氏との間で、娘さんを24時間体制でガードする契約を結んだ。
猫の生首を放り込んでいた犯人は予想よりも早く捕まった。
驚いた事に、犯人は男子小学生だった。
小学生がそんな残虐な真似をした事実に驚きはしたが、正直、拍子抜けした。
『ひとごろし』の落書きの犯人も彼だった。
また振り出しか・・・・・・。
とりあえず、保護者に連絡して、今後このような事をさせないように注意させる必要があった。
俺達は、オム氏宅に少年の両親を呼び出した。
少年の両親は菓子折りを持って姿を現した。
だが、少年の父親とオム夫人の目が合った瞬間、二人は凍りついた。
俺は『・・・何だ?』と怪訝におもった。
どうやら、二人には面識が有るらしい。
とりあえず、少年の両親は、我が子の待つ居間へと通された。
オム氏が両親に息子が行った事を話して聞かせた。
オム氏の長女は俺の腕を掴みながら、恐怖の視線を少年に送っていた。
恐縮する少年の母親。
そして、激昂した父親が少年を張り飛ばした「何て真似をしてくれたんだ!」


1410 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:47:34 id:MrlAqaA.0

「子供相手に、止しなさい!」オム氏が慌てて少年に駆け寄った。
オム夫人が青褪めた顔で少年に問いかけた。
「ボクは、なぜ、あんなことをしたの?」
ニヤリと嫌な笑みを見せながら少年は答えた。
「おばさんが・・・ううん『おかあさん』が人殺しだからだよ」
オム氏も少年の母親も狐につままれたような顔をしていた。
オム氏の娘は、得体の知れないものを見る目で少年を凝視している。
オム夫人と少年の父親の顔は青褪めていた。
「僕はバラバラに切り刻まれて殺されたんだ。おかあさんにね。
怖くて、痛くて、寒くて・・・・・・バラバラにされた僕はゴミバケツに捨てられたんだ。
他の僕みたいな子達と一緒にね。そこのお姉さん、いや『妹』は可愛がって凄く大事にしているのにね」
オム氏が「どういう事だ」と語気を荒げた。
キムさんがオム夫人に言った。
「辛いかもしれないが、全てを話した方がいい。でなければ、何も解決しない」


1411 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:49:05 id:MrlAqaA.0

オム夫人は話し始めた。
少年の父親は、オム夫人が中学生の頃、家庭教師に来ていた大学生だったらしい。
高校受験が終わり卒業式後、入学式前の春休みの事だった。
オム夫人は少年の父親に誘われて、彼の部屋を訪れた。
そこで、大学生だった彼は15歳のオム夫人に襲い掛かった。
信頼していた相手に犯されて、茫然自失の彼女の裸身を彼はポラロイドカメラで撮影した。
写真をネタに彼は何度も彼女を呼び出し、その身体を玩具にした。
やがて、彼女は妊娠した。
誰にも相談できず隠していたが、母親に露見した。
堕胎できるギリギリの日数だったらしい。
オム夫人の父親は激怒した。
だが、教師をしていた大学生の彼の父親は、組合の幹部で某政党に顔も効いた。
半ば、娘を人質に取る形で脅しを掛けてきた。
最低な連中だが、そんな過去を持つ男が今、教師として教壇に立っていると聞いて、俺は反吐の出る思いがした。
彼の親が幾許かの慰謝料を払い、二度と彼を彼女に近付けない事、写真を全て破棄する事が取り決められた。
代わりに、彼女の方は、今後一切の民事・刑事の法的措置を採らない事、事件を口外しない事を約束させられた。


1412 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:50:41 id:MrlAqaA.0

オム氏は妻の肩を抱きながら、怒りに充ちた視線を少年の父親に向けた。
少年の母親は、何か汚い物を見るような冷たい視線を夫に向けていた。
少年は、子供のものとは思えない冷たい視線を送りながら言った。
「お父さんはね、僕を殺した頃の『おかあさん』と同じくらいのお姉さんたちに、
お金を渡していやらしい事をしているんだ。今でもね」
父親に比べるとかなり若く見える、少年の母親の表情は凍り付いた。
思い当たる事があるのだろう。
あくまでも勘だが、彼女自身、この男の被害者だったのかもしれない。
少年は冷たい声で言った。
「『おかあさん』はね、もう長くは生きられない。
切り刻まれて死ぬんだ、僕がされたみたいにね」
オム氏の娘が少年に土下座して絶叫した。
「お願い、お母さんを助けてあげて」
「無理だよ」
「お前の『力』なんだろ?」オム氏が歪んだ表情で言った。
「『僕たちの力』だ。もう、手遅れだよ」
・・・・・・例の『黒い御守り』か・・・袋に書かれていた昭和XX年という年号は恐らく、オム夫人が堕胎した年なのだろう。


1413 :黒い御守り ◆cmuuOjbHnQ:2011/12/23(金) 11:53:15 id:MrlAqaA.0

俺は、少年に声を掛けた。
「『お前達』は、生まれる前の記憶を持っているのか?」
「まあね」
「お前も、他の子供達と『繋がっている』のか?」
「さあ、どうだろうね?でも、オジサンには判ってるんでしょ?
オジサン、僕を『怖いおばさん』の所に連れて行こうと思っているでしょ?
でもね、無理だよ。
オジサン達、古い大人たちには、僕らのことは判らない。
僕らには全て見えているけどね。
見えているから、見えない振りも、わからない振りも出来るんだ」
キムさんが「何のことだ?お前達は何を言っている?」と語気を荒げた。
次の瞬間だった。
キムさんの声を合図にしたかのように、少年は突然、火が付いたように泣き出した。
周りの大人は、成す術も無く、おろおろとするだけだった。
小一時間も泣き続け、やがて少年は泣き止んだ。
泣き止んだ少年は、憑物が落ちたように普通の子供に戻っていた。
そして、俺達に話したこと、猫を刻んだ事も全て無かった事のように、綺麗さっぱりと忘れ去っていた。
後日、少年の言っていた『怖いおばさん』・・・女霊能者・天見 琉華の許に少年を連れて行ったが、
予想通り、彼女の霊視を以ってしても何も得る事は出来なかった。
 
 
おわり

 

1167 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:13:45 ID:3PDqro4M0

季節が冬に変わろうとしていた頃だった。
俺は、オカマのきょうこママに呼び出された。
「ちょっと、相談したい事がある」と言うことだった。
久々に会ったきょうこママは巨大化していた・・・ま、マツコ・デラックス
「久しぶり。相談って、何よ?ダイエットの話なら無理だぜ・・・・・・もう、手遅れだよwww」
「そんなんじゃないわよ、失礼な!真面目な話だから、ちゃんと聞きなさい」
ママの目は真剣だった。
「アンタ、ほのかちゃんの事、覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。大分前に店を辞めたはずだけど、元気にしてるの?」
 
ほのかとは、アリサと出会う前、店の子のガードを請負った折に知り合った。
初めて会った頃の彼女は、ホルモン注射を開始したばかりの段階だった。
元々華奢な体格で、顔の造りも女性的だったためか、女装すると普通の女にしか見えなかった。
ママやガードしていた子の話では「あの子は続かないかもね」という事だったが、勤めは長く続いた。
アリサと共に何度か遊びに行った事もあった。
あまり、自分の事は話したがらない子だったが、『神様のミステイク』に苦しんだ者同志だったからだろうか、アリサに良く懐いていた。
アリサが亡くなってから会った事は無かったが、恋人が出来て店を辞めたと聞き及んでいた。


1168 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:14:49 ID:3PDqro4M0

「あの子がどうかしたのかい?」
「この間ね、偶然会った店の子がほのかちゃんを連れてきたんだけどね・・・・・・あの子、危ないのよ・・・・・・放って置くと多分自殺しちゃう。
アタシはね、何人もそんな子を見てきたから判るのよ」
「そいつは穏やかじゃねえな。それで、俺にどうしろと?」
「あの子の所に顔を出してやって欲しいのよ。アタシや店の子達じゃ会ってくれないから」
「ママ達に会わないのに、俺が行ったからって駄目だろ?」
「そうかもね。・・・・・・でも、あの子にとって、アンタ達は特別だから」
「え?俺達?」
「アンタとアリサちゃんよ。あの子だけじゃなく、店の子達にとって、アンタ達はある意味理想だったのよ・・・・・・
それが、あんな事になって、みんな悲しんでいるわ・・・・・・アンタが思っている以上にね」
「そうかい・・・・・・役には立てないかもしれないけど、行くだけは行ってみるよ」

俺は、ほのかの部屋を何度か訪れたが、彼女がドアを開けることは無かった。
郵便受けにメッセージだけを残して帰る事が何度か続いた。


1169 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:16:06 ID:3PDqro4M0

その日も、メモだけ残して帰ろうとしていた。
だが、郵便受けに封筒を投函すると、部屋の中から物音がした。
彼女は部屋に居るようだ。
俺は、インターホンを連打しながらデカイ声で言った。
「おい、ほのか居るんだろ?
早くドアを開けろ!開けないとウンコするぞ!」
鉄製のドアに何かが当たる音がしたが、扉は開かない。
スコープからこちらを見ている事を確信した俺は、壁際まで下がってベルトを外し、後ろを向いてしゃがみ込んだ。
「ちょ、ちょっと、止めてよ!」と言う声と共にドアが開いた。
「よお、久しぶり!」
「・・・・・・アンタ、馬鹿?恥ずかしいから中に入ってよ!」


1170 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:17:54 ID:3PDqro4M0

俺が部屋に入ると、ほのかはドアを強く閉めた。
ふぅ~っとため息をつくと、呆れた様子で言った。
「兄さん馬鹿でしょう?もう、恥ずかしくって外を歩けないわ!何考えてるのよ?」
「いや、居留守を使うお前が悪いでしょ?俺はちゃんと、次に来る時間も残して帰っていたんだしwww」
「それで、何よ?」
「いや、手紙にも書いたけどさ、ママや店のみんなも心配してるし、俺だって心配だったからさ」
「そう?」
「とりあえず、お前の顔も見たし、今日は帰るよ」
そう言って、ドアを開けようとした俺の腕を彼女が引っ張った。
「久しぶりに会ったんだから、夕食ぐらい食べて行きなさいよ」
俺の訪問に合わせて作っていたのだろうか、テーブルの上には結構な品数の料理が並べられた。


1171 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:18:56 ID:3PDqro4M0

俺達は、無言で食事を続けた。
「美味かったよ。やっぱ、独り者に女の子の手料理はグッと来るものがあるね。やべぇ、惚れちまいそうだよ」
「アリサ姉さんの直伝だからね」
「・・・・・・今日は遅いから、また来るわ。
今度はこんなに凝らなくても良いぞ。・・・・・・そうだな、カレーでいいや!」
「ばか」
とりあえず、ほのかが笑みを見せたのを由として、俺は彼女の部屋を後にした。
沈んだ様子だったが、ほのかからママの言っていた『死相』は見て取れなかった。
だが、形容し難い、妙な空気は確かにあった。
俺は、暫くほのかの部屋に通って、彼女の様子を見る事にした。


1172 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:20:39 ID:3PDqro4M0

何度も足を運んでいるうちに、ほのかの表情は明るくなって行った。
外に連れ出す事にも成功し、ママの店にも連れて行った。
そんな彼女の様子に、油断していたのだろう。
俺は、口を滑らして、店の子たちが話していた『彼氏』の話題に触れてしまった。
とんでもない地雷を踏んでしまったようだ。
ほのかは喚き散らしながら暴れた。
「出て行け!もう顔も見たくない。二度と来るな!」
そう言われて、俺は何も言わずに玄関に向った。
靴を履き、立ち上がると、背中を何発も拳で叩かれた。
「帰れと言われて本当に帰るような奴は二度と来るな!」
振り返ると、涙でベソベソになったほのかが抱き付いてきた。


1173 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:22:10 ID:3PDqro4M0

暫くそうしていると、やがてほのかは泣き止んだ。
「せっかくの美人が台無しじゃないか」
そう言ってハンカチを渡すと、ようやくほのかは落ち着きを取り戻した。
俺は靴を脱いで部屋に上がると、爆撃後のような惨状の室内を片付け始めた。
とりあえず片付けが終わり、腰を降ろして休んでいると、俯いて黙り込んでいたほのかが立ち上がった。
「?」
「ねえ、見て」
見上げる俺にそう言うと、彼女は服を脱ぎ出した。
俺は、黙って彼女を見ていた。
震えながら服を脱ぎ、全裸になった彼女は胸や股間を隠していた手を外して、もう一度言った。
「見て」
「・・・・・・」
「私、女になったのよ。・・・・・・今はね、結婚だって出来るの。・・・・・・私、キレイ?」
「ああ、キレイだよ」
「でもね、彼は私を抱いてはくれなかった・・・・・・彼の為に、彼に喜んで欲しかったのに・・・・・・
あの人は・・・・・・女になった私を捨てて逃げたのよ!」


1174 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:23:09 ID:3PDqro4M0

出会った時、ほのかの彼氏は大学生だったそうだ。
飲み屋でコンパの二次会をしていた彼らと、仕事帰りに飲みに繰り出したほのか達は意気投合して、そのまま三次会に繰り出したそうだ。
ほのかがメアドの交換をした事も忘れかけた頃に、大学生の男から誘いのメールが入った。
暇潰しのつもりで誘いに応じたほのかを男はその後も誘い続けた。
何度も逢瀬を重ねて、ほのかの中で男の存在が大きくなってきて、あぶない、そろそろ『潮時』だと思っていた頃に告白されたそうだ。
告白されたその場で、ほのかはカミングアウトした。
だが、男は驚いたものの、引かなかった。
『一度関係を持てば彼の目も覚めるだろう。最後に一度だけなら』そう思ってホテルに行ったそうだ。
『・・・・・・これで終わった』と思ったが、彼はほのかから去らなかった。
やがて、彼は卒業し、社会人となった。
仕事に慣れ、社員寮から出た彼はほのかに言った。
「一生傍にいて欲しい。一緒に暮らそう」と。


1175 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:24:16 ID:3PDqro4M0

彼の家族は、一人息子がニューハーフと同居する事に激しく反対した。一緒になるなど論外だった。
家族の激しい反対に遭ったが、彼は家族よりもほのかを選んだ。
そんな彼の行動に、ほのかは長年悩んできた性転換手術を受ける覚悟を決めた。
女性の身体になることは彼女にとって長年の夢だったが、手術への恐怖心が大きく、それまで踏み切る事が出来なかったのだ。
何度もカウンセリングを受け、面倒な手続きを経て彼女は決死の覚悟で手術を受けた。
術後、患部が安定するには半年程度の時間が掛かるそうだ。
だが、医師の許可が出て1年以上経っても、彼はほのかの身体に触れようとしなかった。
そして、何か悩んだ様子で、外泊も多くなっていた。
ある日、『一生分の勇気』を振り絞って、彼女は彼に言った。
「抱いて」
服を脱いだ彼女の身体を見て彼は言った。
「・・・・・・すまない」
そのまま彼は部屋を出て行き、二度と戻る事は無かった。


1176 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:25:32 ID:3PDqro4M0

「酷い話だな・・・」
「でしょ?だから、アイツの荷物は全部捨ててやったし、写真も全部燃やしたわ。
彼の事は吹っ切れてるのよ・・・・・・ただ、女としての自信というか、プライドがね・・・・・・」
見え見えの嘘だったが、俺は頷くしかなかった。
「ねえ、良かったら、兄さんが私を『オンナ』にしてくれる?・・・兄さんなら、いいかな・・・」
「悪いな、それは出来ない」
「何で?やっぱり、私って魅力ないのかな?」
「いや、そんな事は無いよ」
「それなら何で?・・・・・・まだ、姉さんのことが?」
「・・・・・・」
「ごめん、変な事を言って・・・・・・忘れて!」


1177 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:26:59 ID:3PDqro4M0

俺は、ほのかの相手の男の事を調べた。
男の居所は、あっさりと割れた。
男は勤務先を退職し、実家に戻っていた。
俺は、男の実家に向かった。
 
ほのかの男・・・・・・宗一郎の父親は、彼とほのかの同棲中に癌で亡くなっていた。
息子に取り次いで欲しいと彼の母親に頼んだが、俺がほのかの縁者だと聞くと、彼女は頑なにそれを拒んだ。
連絡先だけ残してその場を立ち去ると、後日、宗一郎本人から俺の携帯に連絡が入った。
待ち合わせの場所に行くと、従妹だという若い女が待っていた。
事と次第によっては、1・2発ぶん殴ってやりたいと思っていたが、それは出来なかった。
ベッドに横たわる、余り先の長そうではない病人・・・・・・それが、宗一郎だった。
事情がありそうだ・・・・・・
俺は、宗一郎にほのかの許を去った理由を尋ねた。


1178 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:28:20 ID:3PDqro4M0

ほのかの治療中、宗一郎は微妙な体調の変化を感じていた。
妙に体がだるく、首や肩に常に鈍痛を感じていた。
世話女房タイプのほのかは店に出ていた頃から、家事の一切を行っていて、宗一郎には何もさせようとはしなかったらしい。
慣れない家事や、ほのかの見舞い、忙しくなってきた仕事・・・・・・それらの無理が溜まって疲れている、その程度に考えていたらしい。
ほのかの術後の痛みは相当酷かったらしく、宗一郎はほのかの身の回りの世話に精一杯で、自らの体調を気にする余裕は無かった。
だが、宗一郎の体調は確実に悪化した。
はじめは、指先の痺れや頻発する『こむら返り』といった症状だった。
やがて、不意に膝から力が抜けて転倒したり、軽い『寝小便』をするようになった。
『医者に見てもらわなければ』と思ったらしいが、日常生活が忙しく、ズルズルと時間が過ぎた。
そして、会社の定期健診で異常が見つかった。
再検査の結果、肺と胃、頚椎に腫瘍が見つかったらしい。


1179 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:29:44 ID:3PDqro4M0

若い宗一郎の病気の進行は早く、検査で発見された時点で既に手遅れだった。
持って1年と言う宣告に、宗一郎は打ちのめされた。
ほのかに何て話せば良いのだろう?
そう悩んでいた時に、あの夜が訪れた。
「何故逃げた?」と言う俺の問いに、宗一郎はこう答えた。
「もうすぐ居なくなる自分のせいで、ほのかに取り返しの付かない事をさせてしまった。
そう考えたら、怖くなって逃げ出してしまった」
 
「アンタに去られたほのかは、今は何とか落ち着いてるけど、一時は自殺の心配をされる位に落ち込んでいたんだぜ?
そうなる事くらい、アンタにだって判っただろう?」
「俺は、どうすれば良かったんですか?」
「俺にも経験があるから言うけど、あの手の女は特別に情が深いんだ。並のダメ男じゃ見捨ててはくれないよ。
望み通りに抱いてやれば良かったんだよ。
抱きながら、死にたくねえってアンタが涙の一つも見せれば、こんな面倒な事にはならなかったんだ。
大事な時間を無駄にしやがって・・・。アンタ、ほのかに会いたいんだろ?」


1180 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:34:18 ID:3PDqro4M0

宗一郎は頷いた。
「アンタが会いたいと言っても、ほのかがウンと言うかは判らないぞ?
それに、そこの彼女の許しも貰わないとな」
「姐さん、ほのかが彼に逢うことを許してやってくれないかな?アンタには酷な話かもしれないけど。頼むよ」
女の顔は強張っていた。だが、彼女はこう答えた。
「宗ちゃんが会いたいと言うなら・・・・・・」
「そうか、ありがとう」
今週中に連絡すると言って俺は病室を後にした。
 
駐車場で俺は肩を叩かれた。
宗一郎の母親だった。
「お話があります」
深刻な表情の母親を乗せて、俺は車を出した。


1181 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:35:29 ID:3PDqro4M0

スタンドに車を入れ、併設されていたドトールに俺達は入った。
「それで、話って?」
硬い表情のままだった彼女は、しばしの沈黙の後、重い口を開いた。
「お願いです・・・ほのかさんを息子に会わせるのは止めて貰えませんか?」
「何故?」
「私達親子はあの人に恨まれています。
私、あの人にとても酷い事を言ったの・・・・・・私なら絶対に、一生許せないような酷い事を・・・・・・
許して欲しいなんて言えないし、私の事だったらどんなに恨んでもらっても構わない。
でも多分、ほのかさんは、あの人を捨てた息子を恨んでる・・・・・・」
「何故、そんな風に思うのですか?」
「こんな事、言った所で信じては貰えないでしょうけど・・・・・・私は見たの!何度も、何度も!」
「何を?」
「あの人の・・・・・・何て言うの?怨霊?亡霊? それが、息子に取り憑いているのよ!」


1182 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:36:56 ID:3PDqro4M0

母親の言葉を聞いて、俺はようやく納得した。
ほのかの部屋に漂う異様な気配はそう言うことかと。
「お母さん、人を呪わば穴二つって言葉は知ってますよね?
貴女は多分、ほのかに初めて会ったときから、そして、宗一郎君が病気になってからも、ずっと思っていたんじゃないですか?
『あの女さえ居なければ』と・・・・・・
それに、こうも思っていた。宗一郎君の病気の発見が遅れて手遅れになったのは、ほのかの所為だと・・・」
彼女は俯いたまま涙を流した。
「貴女が病室で見たほのかの『生霊』を怨霊だと思ってしまったのは、貴女が彼女に抱いている感情がそう見せているだけですよ。
あの娘と知り合って長いし、俺にもあの娘と同じような境遇の彼女がいたから判るんです。
ほのかは貴女に言われた事で傷付きもしたし、悔しさや悲しさに涙も流しただろうけど、多分、貴女に対する恨みなんて忘れてしまってますよ。
それより、総一郎君に会いたいって気持ちで一杯のはずです。それこそ、生霊を飛ばしてしまうほどにね」
「・・・・・・」
「ほのかは今、精神的に危ない状態なんです。何とかバランスを取っているけれど、ちょっとしたショックでどう転ぶか判らない。
嫌われて捨てられたと誤解したまま、宗一郎君が亡くなったら、後を追いかねない・・・・・・あの娘には宗一郎君しか居ないんです。
・・・・・・彼との思い出があれば、多分、あの娘は生きて行けます。だから、彼女が彼に会う事を許してやって下さい」


1183 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:38:23 ID:3PDqro4M0

俺は、ほのかに宗一郎の病気の事を話した。
始めは駄々を捏ねたが、病院まで無理やり連れて行くと後は流れに任せるだけだった。
宗一郎は余命1年の宣告を受けてから、3年間近く生き続けた。
 
宗一郎の通夜の日。
焼香を済ませて立ち去ろうとする俺に声を掛けてきた女が居た。
「私の事、覚えてます?」
「ああ、病院で会った・・・。その節はどうも」母親と交代で宗一郎の看病をしていた従妹だった。
「ほのかに会っていかないんですか?呼んできましょうか?」
「いいよ」
「それじゃ、ちょっと私に付き合って下さい」


1184 :鏡 ◆cmuuOjbHnQ:2011/02/20(日) 11:40:27 ID:3PDqro4M0

俺達は、葬儀場の直ぐ近くの喫茶店に入った。
ショートケーキを頬張り、飲み物を啜りながら彼女は言った。
「私、貴方を恨んでます」
「・・・・・・そうか」
「そうです!貴方が来なければ、最期まで宗ちゃんを独占できたのに!」
「悪かったな」
「それに、ほのかなんて大嫌いでした」
「・・・・・・」
「私、ずっと宗ちゃんが大好きで、やっと気持ちを伝えたのに、好きな人が居るからって・・・・・・
会った事無かったけど、ほのかも宗ちゃんも居なくなっちゃえって思ってました」
「伯母様に、ほのかの事は聞いていたから、どんなキモイのを連れてくるかと思ってたけど・・・・・・
ほのか・・・・・・悔しいくらいキレイで・・・・・・いい子だったんですよ。
嫌な奴だったら良かったのに・・・・・・私にまで優しくて・・・・・・私が男だったら放って置きません」
「それで、俺にどうしろと?」
「ほのかとの友情に免じて、ここの支払いで許してあげます」
涙を拭きながら、彼女は店員を呼んだ。
「すみません、シフォンケーキを一つ。コーヒーのお代わりもお願いします!」

俺は、ぬるくなった珈琲を飲み干した。


おわり

 

オイラーの森

600 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:25:38 ID:6qXL85WU0

シンさん、そしてキムさんに暇を貰った俺は、久々に愛車を引っ張り出してロングツーリングに出ることになった。
ただ、暇を貰ったと言っても、全くの自由行動と言う訳ではなかった。
シンさんが指定した幾つかのポイント・・・所謂『パワースポット』を廻って来いという指示が含まれていた。
俺は、キムさんから念入りに『気』を取り込む行法をレクチャーされた。
旅の目的は、その時はまだ自覚症状が無かったものの、自律的回復が困難な段階になっていた『心身のダメージ』を抜く事に有った。
以前、世話になった住職の言葉を借りれば『魔境』の一歩手前の段階にあったのだと思う。
その頃の俺は、俺の身を案じてくれるシンさんやキムさんの気持ちをありがたく思いながらも、一つの目論見を持っていた。
この旅を奇貨として、失踪を図るつもりだったのだ。
自分自身の変調に自覚症状が無かった事もあるが、想定外に長くなった異常な生活に心底嫌気が差していたのだ。
嫌気が差したと言っても、辞表を出して「はいそうですか」と言って辞めさせて貰えるはずもない事は俺にも判っていた。
キムさんから貰っていた『表』の仕事のサラリーは悪くない額だった。
『裏』の仕事のギャラは不定期だったが、元の職場で10年勤めても得られない額が殆ど手付かずで残っていた。
特に使い道も無く貯まった預金通帳の残高は、5年や10年なら潜伏するに十分な額があった。
逃亡資金が尽きて、最悪、ダンボール生活に堕ちても、それはそれで構わない。
消されるリスクを冒してでも、俺は異常な世界から逃げ出したかった。
さいわい、その頃の俺に失ったり捨てたりして惜しいものなど何もなかったのだ。


601 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:26:22 ID:6qXL85WU0

そんな考えに至る事自体が『魔境』に嵌り掛けていた『症状』そのものだったのかもしれない。
俺の計画を見透かすかのように、俺の旅には同行者が付けられることになった。
同行者の名は安東 勇・・・俺の出入りしていた空手道場の練習生だった。
少年部上がりのイサムは、キャリアは長いが万年茶帯の幽霊会員だった。
顔を合わせたのも2・3度で、見覚えは有るが特に印象の無い男だった。
だが、イサムと俺には意外な共通点があった。
イサム・・・安 勇(アン ヨン)は、かつてマサさんのクライアントとして、彼の姉と共に例の『井戸』のある『結界の地』に滞在した事があったのだ。
イサムに引き合わされる数日前に、それとは知らずに姉の方とは会っていた。
マサさんに連れられて、ツーリングの道中に身に付ける『お守り』を作るために引き合わされた女がイサムの姉だった。
イサムからは『能力者』の雰囲気は感じられなかったが、姉の方はゾクゾク来る『雰囲気』があった。
彼女が発する独特の雰囲気は、そう、かつて俺がこの世界に入るきっかけとなった事件で『生霊』を飛ばしてきた女に非常に似ていた。
違っていたのは、マサさんに向ける視線が艶を含んだ『オンナ』のそれだったことだった事か?
マサさんと女の微妙な間に、『このオッサンにも春が来たかw』と思ってニヤリとしたが、あえて突っ込む事はしなかった。
詳しい事情は判らないが、マサさんにとって安東姉弟が信頼の置ける人物なのは確かだった。


602 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:27:18 ID:6qXL85WU0

幾つかの行法の指導を受け、イサムの姉にパワーストーンの『お守り』を作ってもらいながら、俺は旅の準備を進めた。
放電し切って液も蒸発し、サルフェーションを起したバッテリーを交換。
オイルやフィルターも交換して、タイヤも前後新品にした。
久々に火を入れた147馬力のエンジンは10数年落ちの車齢が嘘のように快調な吹け上がりだ。
少々煩いノイズはご愛嬌。
リアシートに荷物を括り付け、タンクバッグにはマップ。
久々に腕を通したジャケットの革が硬い。
170サイズのリアタイヤが埃っぽいアスファルトを蹴り出して、俺とイサムの旅が始まった。
 
基本的にテントと寝袋で野宿しながら、時には倉庫の片隅などに寝泊りしながら、俺達はシンさんに指定された『ポイント』の半分ほどを回り終えていた。
移動の便宜を考慮してくれたのか、シンさんの指定したポイントはバイク移動に支障のある場所は殆ど無かった。
だが、その場所は少々勝手が違っていた。
詳しい位置が指定されておらず『管理人』の連絡先だけが指示されていた。
俺は、シンさんに渡されたメモを頼りに管理人の熊倉氏に連絡を入れ、指定の場所を訪れた。
促されてバイクを待ち合わせ場所のガレージに入れると、熊倉氏は表に停まっていたジムニーを『乗れ』と指差した。


603 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:28:09 ID:6qXL85WU0

長身のイサムは後ろで荷物に押しやられながら「狭い!」と呻いていた。
熊倉氏は、淡々と車を走らせ、やがて山に入っていった。
かなり舗装の傷んだ道路を暫く上ると、やがて林道だろうか、車一台がやっとと言った未舗装道路に入った。
オフ車ならそれなりに楽しそうだが、オンロードバイクにはちょっと厳しい道程だ。
雨でも降れば普通の乗用車はスタックしそうだし、ランクルのような図体のデカイ四輪駆動車ではストレスが貯まりそうな道だった。
暫く進むと開けた場所に出て、山小屋が現われた。
車を降りると濃密な空気が肺を満たした。
聞こえるのは沢を流れる水音だけで、ひんやりとした空気が心地よい。
意外なことに、この山小屋は・・・いや、この山自体が榊氏の持ち物らしい。
 
荷物を下して山小屋に入ると、事前に熊倉氏が運び込んだのだろう、一週間分くらいの食料品が運び込まれていた。
俺とイサムが腰を下すと、熊倉氏はそのまま厨房に立ち、食事の用意を始めた。
殆ど口を開かず、神経質な雰囲気の熊倉氏は取っ付きにくい印象だった。
イサムは俺以上に居心地が悪そうだった。


604 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:29:10 ID:6qXL85WU0

囲炉裏に火を起こし、鍋を吊るした。
釜から飯をよそって食事を始めると、やっと熊倉氏が口を開いた。
「どうだ?」
イサムが「美味いです」と答えると、ニヤッと笑って「そうじゃないよ」と言って俺の方に鋭い視線を向けた。
「この山のことですか?」
「そうだ」
「自分らは、あちこち廻って来たんですが・・・この山ほど濃厚で強い『気』が満ちている場所はありませんでしたね」
「俺に『気』だ、何だといった話を振られても答えようが無いんだが、まあ、アンタが言うならそうなんだろうな」
熊倉氏は俺の顔をじっと見つめながら言った。
「シンさんから聞いてはいたんだが・・・似てるな」
「?」
「榊さんの息子は、私の学生時代の友人でね・・・シンさんも言っていたが、アンタは友人に良く似てるよ」
「そうですか・・・」


605 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:30:08 ID:6qXL85WU0

翌朝、俺達は熊倉氏に連れられて森の奥へと入って行った。
20分ほど進むと、樹齢何年になればこれほどになるのかと言う大木が現われた。
間違いなく、この山の『ヌシ』だろう。
俺は、この大木の下を修行のポイントに決めた。
3日間、朝昼晩の1日3回90分づつ、この大木の下でキムさんにレクチャーされた『気』を取り込む行法を行った。
4日目の朝、俺が『行』を行っている間、暇つぶしに付近を散策していたイサムが、慌てて俺の許にやってきた。
『行』を中断されて憮然とする俺に「先輩、こっちへ来てください!」と言って、森の更に奥へと腕を引っ張って行った。
しぶしぶとイサムに付いて行くと、熊笹に半ば埋もれた状態の『妙なもの』が現われた。
平べったい石を幾層にも重ねてコンクリートで固めた円筒は井戸だろうか?
直径1mほどの『井戸』は板状に加工された黒い自然石3枚で蓋がされていた。
更に、井戸の周囲には黒錆に覆われた鉄杭が8本。
・・・似ている。
少し形は違うがマサさんの『井戸』に良く似ている!
精神的な動揺が大きく、『行』は不可能なので、朝の行を取りやめにして山小屋に戻ることにした。
『ヌシ』の前を通過して少し進んだ辺りで、俺は突然、吐き気に襲われた。
鉄臭いニオイの後、大量の鼻血も流れ出てきた。
どうやら、そのまま俺はそこで意識を失ったらしい。
次に気が付いたとき、俺は山小屋の床に横たわっており、外は日が落ちて暗くなっていた。


606 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:30:55 ID:6qXL85WU0

「先輩、大丈夫ですか」
俺が目を覚ましたことに気が付いたイサムが声を掛けてきた。
「ああ、大丈夫だ」そうイサムに答えた後、俺は熊倉氏にかなり強い調子で尋ねた。
「あの、森の奥の井戸のようなものは何なんですか?」
「そう慌てないで、まずは飯を食ってからだ。
 朝から何も喰ってないだろ?」
確かに、異常に腹は減っていた。
普段、俺は食が太い方ではないが、その時は自分でも呆れるくらいに食いまくった。
俺の食いっぷりにイサムは呆れ顔だった。
それを見越したかのように熊倉氏は普段よりかなり多めに用意したようだが、用意された食事の半分以上を俺一人で平らげていた。
食事が済んだ所で、俺は熊倉氏に再度尋ねた。
「あの井戸のようなものは何なんですか?」
 
熊倉氏は、暫し考えてから言った。
「アンタ達はあの『樹』の所からも帰ってきたし、『井戸』を見付けられたんだから、話しても良いのだろうな」
そう前置きして、熊倉氏は興味深い話をし始めた。


607 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:31:42 ID:6qXL85WU0

「君達、この日本と言う国の特殊性をどう考える?
 呪術的と言うか、精神文化的な側面から見た特殊性という意味で」
「前に聞いたのですが・・・、建国以来途絶える事無く続く、制度的・精神的『中心軸』としての『皇室』の存在ですか?」
「そう、確かにそれもある。
 じゃあ、その『皇室』を中心とした『日本国』或いは『日本民族』を存続させてきた『力』の根源は何だと思う?
 王朝や帝国は地中海沿岸や中国大陸、エジプトやメソポアミアにもあった。
 日本の皇室以上に呪術的な王朝は数限りなく存在したが、なぜ、日本の皇室や日本国だけが存続できたと思う?」
俺も、イサムも答えに困った。
熊倉氏の説明によれば、それは日本列島を覆う豊かな森林に負う所が大きいと言う事だった。
日本は先進国中ではトップクラスの、世界的に見ても特に森林の豊かな国と言う事だ。
乱開発による伐採によりかなり減少したとは言え、日本の国土の68%が森林であり、バブル期の乱開発の前は実に75%の森林面積を誇っていたのだ。
68%の森林率は、森林国として有名なフィンランドの73%強に続き、同じく森林国のスウェーデンの67%弱よりも大きい。
因みに世界の陸地の森林率は30%を割っていると言うから、日本が如何に森林に恵まれた国かが伺われる。
この日本の森林の際立った特徴は、森林蓄積の割合で、自然林は意外に少なく、実にその6割以上が植樹による人工林と言う事らしい。


608 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:32:35 ID:6qXL85WU0

日本列島には、太平洋の海流エネルギーが集中し、日本の海域には世界でも最も流線密度の高い暖流が流れている。
流線密度の高い海流が集中する地域は、穏やかな気候に恵まれ雨量も豊富となる。
気候が良く雨量に恵まれれば、その地域に人口が集中し、大都市が形成されやすく、文化・文明が発達する可能性が高い。
海流流線密度が低い地域は乾燥した気候が多く、その分遠隔地から真水を引いてこなければならない。
砂漠が広大となれば大都市が発達する可能性は低く、発達しても都市を支える後背地の自然環境が悪ければ居住環境も劣悪となる。
人口が集中しても文化・文明を発達させる余力に乏しく、貧困やスラムを産むだけだ。
日本列島は元々有利な自然・地理的環境にあったが、そこに住む日本民族自身が、良質な真水を得るために大変なエネルギーを自然に加え続けてきた。
真水を生み出すのは豊富な森林である。
過去、世界で森林を失った国は忽ち砂漠化し、文化・文明から大きく取り残される事になった。
現代においても、産業や先端技術を支えるのは教育の普及などの人的側面も大きいが、物的側面として良質な真水の存在が欠かせない。
産業の基礎となる鉱物資源等を入手する事以上に良質の真水を得ることは難しい。
だが、ただ豊かな森林があるだけでは、例えば広大な熱帯雨林があるだけでは高度な文明や文化は発達しない。
自然環境と人的エネルギーの融合が無ければ、人間の文化・文明を支える良質な背景的自然環境に成り得ないのだ。
日本人は、この自然環境との共生が民族的深層心理のレベルで最も進んだ民族と言うことだ。
日本の神社には必ず森があり、神木がある。
日本民族古来の自然・宗教的な無意識領域では、森が無ければ神は天降ってこない事になっているからだ。
日本民族は、この日本列島と言う自然環境に気の遠くなるようなエネルギーを注ぎ込んできた。
そして、民族的深層心理のレベルで『一体化』を図ってきたのだ。


609 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:33:32 ID:6qXL85WU0

高麗時代、朝鮮半島にも豊かな森があり、白磁青磁に代表されるような高度な文化・文明があった。
森を切り開いても、その跡には植林が施されていたらしい。
蒙古の侵略を受け、軍船の建造や製鉄の為にかなりの森林が失われたが、それでも植林は行われ森は残った。
高麗の宗教が儒教ではなく、仏教だった事が大きく作用していたようだ。
しかし、500年前、李朝になった途端に朝鮮半島の森林は荒廃し始め、植林も全く行われなくなった。
李朝は、過激なまでに儒教を奨励し、仏教を始め従来の宗教を徹底的に弾圧した。
儒教の教えは人間関係の道徳だけである。
森が無ければ神は降りてこないといった、日本の神道に見られるような、自らの生存基盤である自然環境と調和しようとする民族的深層心理の醸成に全くと言って良いほどに寄与しない。
画して、李朝時代の朝鮮半島では材木や燃料として木を切り出しても植林される事は無く、山々から緑は失われた。
やがて、『森を失った李朝』は衰退し、朝鮮民族は文化・文明的な死に瀕することになる・・・
 
熊倉氏の説明に俺は疑問を感じた。
森の生み出す『真水』の重要性は理解できるが、朝鮮半島には漢江のような流量の豊かな河川が数多く流れているではないか?
熊倉氏に疑問をぶつけると、彼はニヤリと笑って答えた。


610 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:34:24 ID:6qXL85WU0

そう、豊かな水が有るだけでは、多くの人口が集まるだけでは豊穣な文化も高度な文明も生まれない。
そう言ったものが生まれるには、人間のエネルギー、『気』や『念』と言ったものが集積され昇華されることが必要なのだ。
その源泉となるのが、太陽や大気からの『気』、或いは土や岩石などの大地からの『気』なのだ。
だが、人間を始めとした動物は、そう言った天地の『気』を自らの力として直接に使うことは殆ど出来ない。
風水などを用いて『気』の流れに手を加えるのが良い所であり、肉体や精神に自然界の『気』を取り込むには特殊な技術を要する。
太陽や大気、大地と言った『無生物の気』『環境の気』を直接使える『生きた気』に変換出来るのは植物・・・つまりは森だけなのだ。
自然環境を破壊して森を失った民族は、エネルギーの源泉を失い、やがては衰退して行く。
風や太陽、大地などの『無生物の気』は非常に強く、それに抗う人間という生物の持つ『気』は余りに微弱なのだ。
 
疑問もあったが熊倉氏の話には納得できる点も多々あった。
確かに大気中の二酸化炭素光合成によって酸素と炭水化物に、或いは土中から各種の無機物を取り入れ栄養素と出来るのは植物だけである。
これ程までに科学の発展した現代においても、光合成の完全人工化には未だ成功してはいないのだ。
無生物から生物への気の流れの話は、『森が無ければ神は降りてこない』という話とも辻褄が合う。
納得仕切る事は出来なかったが、面白い物の見方だと俺は思った。


611 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:35:18 ID:6qXL85WU0

朝鮮総督府は、朝鮮半島全域で大規模な植林事業を展開した。
禿山に少しでも早く緑をと、生育が早く寒冷な朝鮮半島の気候にも耐えられるアカシアの木が多く植林された。
だが、日本の支配が終わると、朝鮮民族は後先を考えない無軌道な乱伐で、再度自国の山々を不毛の禿山にしてしまった。
彼らは、乱伐の責任を商品価値の低いアカシアを植林した朝鮮総督府に転嫁しつつ、自ら植林しようとはしなかった。
だが、禿山だった韓国の山々に30年ほど前から緑が復活し始めた。
政府主導で植林事業が強力に推し進められたからだ。
だが、植林の初期には、ある程度育った若木がオンドルの燃料などとして無断で伐採される事も少なくなかったそうだ。
韓国政府は国有林の無断伐採に懲役刑も含めた重刑を科すことで森林の育成を推し進めた。
森の復活と共に、やがて韓国はエネルギッシュな経済国として目覚しい発展を遂げた。
同じ民族の国家である北朝鮮とは好対照である。
政治経済が破綻し、国民に餓死者を出す有様の北朝鮮の山々は、今なお岩肌をむき出した禿山が殆どである。
だが、先進国の一角を占めるようになった韓国の国土面積に占める森林率は実に63%強。
主要国ではスウェーデンに次ぐ森林大国となっている。
批判的に見る向きも多いのだろうが、数百年ぶりに森の戻った韓国の体質は北朝鮮やその他の国々に比べ極めて有利なものと言えるのではないだろうか?
恐らく、朝鮮民族始まって以来最大の繁栄を謳歌している現代の韓国人の姿を見たとき、俺は熊倉氏に聞いた『森の話』を思い起こさずにはいられないのだ。


612 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:36:11 ID:6qXL85WU0

熊倉氏の話は興味深かったが、俺とイサムの疑問、あの『井戸』が何なのかには全く答えていなかった。
俺は熊倉氏に詰め寄った。
熊倉氏は数枚の地図を持ち出してきた。
「日本にはナントカ三山と呼ばれる場所が何箇所もあるが何故だか判るかな?」
「いいえ」
「ピラミッド等もそうだが、三角形と言うのは、『気』や大地のエネルギーを集めるのに適した形なんだ」
「へえ」
「エネルギーを集める効果を強める為に三角を上下に重ねて、集めた気を外に逃がさないようにした図形があるんだが知っているかな?」
イサムが答えた。
ダビデの星って奴ですか?」
「そう。
 イスラエル国旗の意匠にもなってるね。
 日本では籠目紋と言って、伊勢神宮鞍馬寺でも用いられていて、しばしば日ユ同祖論の論拠にもされている」
熊倉氏によると、この籠目紋は、比較的狭い空間で『気』やエネルギーを集積する効果を狙った図形らしい。
等辺六芒星の中心点、二つの正三角形の中心にエネルギーを集中する図形だそうだ。


613 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:37:11 ID:6qXL85WU0

熊倉氏は、持ち出した5枚の地図に赤いマジックで点を打った。
赤い点に定規を当て、黒のマジックで線を引くと、それぞれバラバラな形をした三角形になった。
5枚の地図には番号が振ってあって、何やら鉛筆で補助線を引いて三角形の中に点を打った。
点の一つが三角形の重心なのは俺にも判った。
熊倉氏は三角形内の点を通る青い直線を三角形を貫くように引いた。
5枚の地図に同じような図形を描くと熊倉氏は俺達に「何だと思う?」と質問をぶつけてきた。
暫く地図と睨めていると、「あっ」と言ってイサムは地図に書き込みを始めた。
イサムの作業を見て俺も直ぐに気付いた。
この青いラインはオイラー線か!
三角形内に打たれた点は、垂心・重心・外心だったのだ。
熊倉氏は縮尺の異なる別の地図に緑の点を5つ打ち、点に番号を振った。
緑の点の位置はバラバラで規則性は無かった。
熊倉氏はイサムに先ほどの地図と同じ角度で緑の点を通る青いラインを引かせた。
5本の青いラインは、ほぼ一点で交差した。
熊倉氏は青いラインの交点を指差して言った。
「君らが先ほど見た『井戸』はここにある。
 この山にも井戸の蓋と同じ材質の岩が正三角形に配置してあって、井戸はその重心に位置している。
 何故だかわかるかな?」
「正三角形は垂心・外心が重心に一致してオイラー線を定義できないから?」
「正解だ。
 三角陣はオイラー線に乗せて、集積した『気』やエネルギーを外心から重心を通して垂心方向に飛ばす性質があるのさ。
 井戸は集積した『気』を溜め込む仕掛けだな。
 ピラミッドやストーンサークルでも組んだ方が雰囲気も出るが、使用目的から井戸と言う形になっている。
 5枚の地図の赤い点の場所には祠があったり、同じ材質の岩が置いてあったり、お地蔵さんが立ってる」


614 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:38:17 ID:6qXL85WU0

「へえ」
「この仕掛けは、あまり知られてはいないけれど結構ありふれたものなんだよ。
 古墳や遺跡で石室が見つかる事があるだろ?
 全部がそうだとは言わないが、引き込んだ『気』を溜め込む仕掛けとして作られたものも少なくないと思うよ。
 作った人間や関係者じゃないと『気』を持ってくる先の三角陣を見つけて特定するのは不可能に近いけどね」
「面白いですね」
「この仕掛けは、朝鮮半島から渡来人が持ち込んだ物とされているが、逆に日本人が百済に持ち込んだという見解もある。
 出所は不明だが、似たような仕掛けは韓国にもあるんだ。
 まあ、任那日本府とか、天智天皇済州島耽羅という国と連合して百済救援の為に新羅と戦ったりしているから関係は相当に深かったのだろう。
 白村江の戦いに敗れた日本は、朝鮮半島から全面撤退したが、その時、滅亡した百済の民を数多く日本に連れ帰ったという言い伝えもあるしね。
 日本の皇室と百済の王室は縁戚関係にあったようだし、百済人と古代日本人はかなり共通した精神文化やメンタリティーを持っていたのだろう。
 両者に共通した祭祀や呪術が有っても不思議は無いだろうさ」
 
「熊倉さん、『気』だの何だの話を振られても困ると言ってる割に随分詳しいんだね」
「友人の榊の受け売りと、自分でも随分研究したからね」
「へえ。
 それで、あの井戸の使用目的って何なんですか?」
「あの中に入るのさ。
 榊家の人々は、代々、成人すると一度はあの井戸に篭るらしい。
 友人の榊も大学2年生の時、あの井戸に一昼夜篭っている」
「なんで、アンタがそれを知っているんだい?」
「アイツの付き添いで私も立ち会ったからな」
「・・・・・・そうなんだ」


615 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:39:11 ID:6qXL85WU0

ややあって、熊倉氏が俺に言った。
「どうだ、試しにあの井戸に入ってみないか?」
「おいおい、勝手にそんな真似して良いのかよ?」
「私は、榊氏からこの山の管理を一任されている。
 榊家の次期当主は既にこの世にはいないし、榊家の血縁者も榊氏以外いないから、問題があっても無くても同じ事だろう。
 大木に同化して、山の木々から根を通じて『気』を取り込むより効率的なんじゃないか?
 井戸に溜め込まれているのは、森から集めた『生きた気』だから、『消化』の為の『循環の行』も必要ないだろうしな。
 怖いと言うなら、無理に勧めないがね」
「それって、挑発されてるんですかね?
 ・・・・・・面白い、その挑発に乗りましょう」
俺は、問題の『井戸』に潜る事になった。
熊倉氏によると、『呪術師』榊は一昼夜、井戸に篭ったらしい。
翌朝、準備を整えると、俺達は問題の井戸へと向った。
 
持って行った鎌で井戸の周り、鉄杭の内側の熊笹を刈り取ると井戸の蓋の石板を外しに掛かった。
石板は1枚80kg程か?
バーベル等のウエイトとしてなら左程重いとも言えない重量だが、相手はただの石の板。
大人二人でなければ扱えない重量だった。
まして、井戸の中から1人で押し上げて外すのは不可能に近い。
刈り取った熊笹を束ねたものに火をつけて井戸に放り込んでみた。
井戸の底で火は消えずに燃えている。
枯れ井戸で水は無いようだ。
心配した酸欠も大丈夫なようだ。
俺は井戸の壁面の石を足掛かりに井戸を降りていった。
真っ暗闇の中、手足の感覚とイサムと熊倉氏が手繰るロープだけが頼りだ。
俺は井戸の底に到達した。
かなり深い。
見上げる空は500円玉ほどの大きさしかない。
やがて正午となったのだろう、イサムが「閉めま~す」と声を掛け、井戸に石板で蓋がされた。


616 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:40:26 ID:6qXL85WU0

全く光の無い漆黒の闇。
壁面に吸収されるのか、全ての音が反響する事無く篭ってしまい、空気をより一層重苦しいものにしていた。
深い深い海の底に沈められたかのように、闇の静寂が圧力となって、やがて俺の精神を押し潰して行った。
井戸の傍には熊倉とイサムが待機しているはずだが、二人の気配は感じられない。
もし、二人がこの場から立ち去れば、俺はこの重苦しい闇の中で朽ちて行くしかない。
熊倉の挑発に乗って・・・いや、好奇心からこの井戸に入ったが、俺はとんでもない判断ミスを犯したのではないか?
昨日、俺が気を失ってる間に熊倉とイサムが通謀して、俺をこの穴の中に遺棄する計略だったのではないか?
そもそも、イサムが旅の随伴者となったのは、色々と知り過ぎて用済みとなった俺を消す為だったのではないか?
俺の脳裏は、恐怖心と猜疑心に埋め尽くされて行った。
心拍と呼吸が乱れ息苦しさは耐え難いものになって行った。
とても『気』を感じるどころではなかった。
・・・・・・不味い、信じ難いことだが、予定の24時間を待つ事無く俺の精神は破綻する!
余りやりたくは無いが、『アレ』をやってみるか・・・・・・
「GyaaaaaWawoogyふじこlp;@:『湖jhンbhbhvgcgcxdzsdftdrgftrsrdty!!!!!!!」
俺は狭い空間でのた打ち回りながら、有らん限りの奇声を発した。
もし、俺の姿を見る者がいたら、発狂したとしか思えなかっただろう。
精神を圧殺する恐怖感を忘れ、人間の恐怖心を足掛かりに憑依しようとする悪霊や魑魅魍魎から身を守る『技法』。
朝鮮式精神均衡法・・・『泣き女』或いは『火病』の術を俺は行った。
『発狂』を演じる事で、逆説的だが恐怖や怒りといった強烈な感情の支配から精神を解放し、冷静な精神状態に戻ることができるのだ。
『感情のエネルギー』が過多で、精神の均衡を失い易い朝鮮人に適した方法だ。
『禅』や『瞑想』と言った日本人好みの『静』的な手法で、既に潰れかかった精神を正常な状態に引き戻すのは非常に難しい。
狂い疲れてきた所で、どうにか俺は精神の均衡を取り戻すことが出来た。


617 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:43:13 ID:6qXL85WU0

冷静さを取り戻してきた所で、妙な事に気付いた。
井戸の中の『気』が恐ろしく希薄なのだ。
不思議だ・・・そう思った瞬間、俺の脳裏に閃くものが有った。
上手い喩えではないが、これまで意識していなかった自分の頭を覆っていた『袋』が急に取り払われたような感覚だった。
頭の霧が晴れた俺は直感的に理解した。
井戸の周りの鉄杭・・・あれは、この山全体が放出する濃厚な『気』からこの井戸を遮断する為のものだったのだ!
「大木に同化して、山の木々から根を通じて『気』を取り込むより効率的なんじゃないか?」という熊倉の言葉が脳裏に浮かんだ。
これは、俺が出発する前にキムさんからレクチャーされた技法の核心だった。
『鉄壷』の時の供養法を更に進めたものだ。
俺は、『井戸』の中に全体に意識を広げ、同化を図った。
瞑想状態が今までの俺の限界を超えて深くなって行くのが判った。
井戸に同化することで、俺は昨晩地図で示された5箇所を含めて8箇所のパワースポットとこの井戸が『繋がっている』ことを『発見』した。
意識を『解放』すると予想通り、俺の中に大量の『気』が流れ込んできた。
この施設は、各地の『パワースポット』から『気』を溜め込むのが目的ではなく、また、溜め込まれた『気』を浴びるのが目的でもなかった。
各スポットからの『気』を集める『道』の集結点である事に意味があったのだ。
そして、俺はマサさんの事を思い出していた。
マサさんと『井戸』は『繋がって』いて、マサさんは井戸のある『結界の地』に祓いの対象者を連れて行かなくても、悪霊や魑魅魍魎を井戸に送り込む事ができるのだ。
榊家の人々が成人後一度はこの井戸に潜るというのは、『一度潜れば』十分ということなのだ。
一度『同化』すれば『繋がる』・・・恐らく、そういうことなのだろう。
以前、榊老人が、老体にも拘らず奈津子の力で仮死状態に陥った飯山とマサさんの処置を同時に行えたのも頷ける。
恐らく、榊老人は、この井戸と『繋がって』いて、この井戸から『気』を引き込んでいたのだ。


618 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:44:09 ID:6qXL85WU0

やがて、予定の24時間が過ぎ去った。
ザイルに引かれながら、俺は壁面の突起を頼りに井戸を上った。
24時間ぶりの外の空気は実に美味かった。
俺は、眩しい太陽の光に目を細めながら、山の木々が発する『気』を目一杯に吸い込んだ。
 
その晩、熊倉氏の最後の手料理に俺達は舌鼓を打った。
俺は熊倉氏に聞いた。
「熊倉さん、俺が井戸に入る前、あなたが言った『大木に同化して、山の木々から根を通じて『気』を取り込む』と言うのは一種の奥義って奴なんだ。
 なんで、呪術師や修行者でもないアンタが知ってるんだ?」
「そんなこと、言ったかな?」
「それともう一つ。
 俺はあの井戸に近付いて、ゲロを吐いて気を失ったが、あれは『結界』の効果なんじゃないですか?
 あなたは俺達に『見つけられた』と言ってましたよね?
 昨日はなんとも無かったけれど、あれは、あなたが結界を解いたからじゃないですか?」
「おいおい、私はただの管理人だよ? 
 知る訳ないじゃないないか」
「井戸の中でも不思議な事が有った・・・色々な事に気付いたり、思いついたりしたんだが・・・本当に自分で『気付いた』り『思いついた』りしたのか確信が無いんですよ。
 流れ込んできたと言うか、誰かに植え付けられたような気がしてならないんだ・・・率直に聞きますが、俺が気を失ってる間に何をしました?」
「私には、君が何を言ってるのか全く理解できない。
 『結界』云々と言うのならイサム君に何も起らなかった事の説明がつかないし、君に何かしたらイサム君がキミに言うはずだろ?
 暗闇で精神を押し潰されて発狂寸前まで追い込まれて、被害妄想が強くなってるんじゃないかな?」


619 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:46:55 ID:6qXL85WU0

暫く無言の時間が過ぎ、熊倉氏が口を開いた。
「木々の根が絡み合って地下で繋がっているように、人間も意識の底で、時間や空間を越えて潜在意識とか集合的無意識で繋がっているそうだよ。
 木々の根のように、・・・蜘蛛の巣のように、絡み合いながらね。
 ここは、代々呪術の世界に囚われ生きてきた榊家所縁の地だ。
 君のインスピレーションは、案外、深い瞑想を行い、井戸と同化する事によって、『榊家の意識』と繋がって得られたものなのかも知れないね」
・・・・・・俺は熊倉氏に『発狂寸前まで追い込まれた』ことも、『井戸と同化』したことも話してはいなかった。
だが、これ以上、熊倉氏を追及する気はなくなっていた。
 
「榊家も次期当主だった榊は既に亡く、現当主の榊氏もかなりのご高齢だ。
 1000年以上続いた呪術の血統も途絶えて、間もなくこの地上から消え去る。
 恐らく、君はあの井戸に潜った最後の人間になるだろうな」
熊倉氏は寂しそうに言った。
 
翌朝、俺達は熊倉氏のジムニーに乗って山を降りた。
別れ際、俺は榊氏と握手を交わしながら言った。
「呪術のことは判りませんが、榊家の血統は残り続けますよ。
 追われる身だった榊氏には、籍は入っていませんが奥さんがいたんです。
 榊氏が亡くなった後に発覚したのですが、奥さんは妊娠していました。
 奥さんは無事女の子を出産されましたよ。
 榊氏のお弟子さんだったキム氏、マサ氏、それと木島氏の手によって先日、親子は保護されました。
 奥さんの千津子さんと娘の奈津子さんは、今は榊氏の許で元気に暮らしています」
「・・・へえ、・・・榊が聞いたら喜ぶだろうな」
俺はタンクバッグを開けて中から1枚のバンダナを出して熊倉氏に渡した。
「これは?」
「奈津子さんが、祖母の榊婦人と染めたバンダナです。
 良かったら使ってください。
 お世話になりました、ありがとうございます」


620 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:51:48 ID:6qXL85WU0

後日、榊氏にお会いした際に熊倉氏と井戸の事を聞いてみた。
榊氏の答えは、「知らない」の一言だった。
『井戸の山』の存在も、管理人の『熊倉氏』も知らないと言う事だった。
シンさんまでもが否定した。
確かに、俺のツーリングマップにも、あの山は記入されていない。
俺が気を失っている間、或いは井戸に潜っている間にでも処分されたのか、熊倉氏の連絡先のメモも、携帯電話の記録も残っていなかった。
イサムまでもが熊倉氏と『井戸の山』を「知らない」と言うのだ。
そして、俺自身が、『山』へも、待ち合わせの場所にも、大凡の位置がわかっていながら2度と辿り付く事はなかった。
だが、奈津子のバンダナが1枚無くなり、俺の中に残ったものがあった。
俺のキャパシティーの問題から量は少ないが、俺は一度『同化』を果たしたあの井戸から『気』を導く事ができるのだ。
『井戸』の隠された大木の森と、オイラー線で結ばれた8つの『三角の森』。
深い緑の森を思い浮かべれば『気』は流れ込んでくる。
そして、これは特別な事ではない。
民族的深層心理のレベルで日本列島を覆う緑の森と結び付いた我々日本人は、誰でも森の『気』をその身に受けることができる。
豊かな森を思い浮かべ、強く感情を・・・『愛』を向ければ、森から流れ込む『気』を感じる事ができるだろう。
多くの人が気付いていないだけで、我々は祖先が幾世代も掛けて守り育ててきた森の木々に愛され守られているのだ。
 
熊倉氏の許を去り、俺とイサムの旅は続いた。
 
 
おわり

 

契約

296 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:13:14 ID:???0

半田親子が榊家に保護されてから3ヵ月後、マサさんの回復を待って、千津子と奈津子に対する『処置』が行われた。
処置を行ったのは木島とマサさん、そして、以前、ヨガスクールの事件を持ち込んできたキムさんの知り合いの女霊能者だった。
彼女は以前にも『能力』を悪用していたヨガスクール関係者の『力』を封印していた。
そういった力なり技の持ち主なのだろう。
二人の『処置』は成功裡に終わったらしい。
俺は、シンさんの許を訪れる、木島の迎えに出ていた。
駅を出てきた木島は、迎えの車に乗り込むと、俺宛の紙包みを車中で渡した。
中には藍の絞り染めのバンダナが数枚と、2通の手紙が入っていた。
バンダナは、奈津子が祖母の榊夫人と共に染めたものらしい。
額の刃物傷や頭の手術痕、アスファルトで削られた頭皮の傷痕を隠す為に、俺が頭にバンダナを巻いていたのを覚えていたようだ。
手紙は千津子と奈津子からだった。
たどたどしい文字だったが、読み書きが殆ど出来なかった親子の知能は『処置』後、急速に伸びているようだ。
もともと、二人はアパートの大家の熱心な教育?の効果もあってか、日常生活をほぼ支障なく送れるレベルにはあったのだ。
俺は木島に「二人は元気にしているのか?」と尋ねた。
「ああ。榊夫妻が猫可愛がりしてるよ。榊の爺さんは、もう、目に入れても痛くないって感じだな。
偶には会いに行ってやってくれ。お前が行けば二人が、それに榊夫妻も喜ぶ」
「なあ、あの仕事、シンさんは何故俺を選んだんだ?」


297 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:14:05 ID:???0

やや間を置いて木島が答えた。
「シン先生は、組織内で微妙な立場に在るんだ。韓国人でありながら強い影響力を持っていて、組織でも高い地位にいるからな。
キムやマサは、シン先生の指示にしか従わないしな。
能力第一で、血筋や家柄なんて二の次、三の次の俺達の業界でも、逆恨みや、やっかみは跡を絶たないのさ。
特に、毛並みだけは良いが力のない、佐久間のような連中にとっては、シン先生達は目障りな存在なんだ。
奴らにとっての拠り所でもある、毛並みも力も備えた『名門』、榊家の次期当主を消した韓国人のシン先生達への恨みは実に根深いものがあるんだよ。
それに、組織の当初の方針に反して千津子を消さなかったのは、シン先生の強力な働き掛けがあったからだしな。
頭の古い連中に角を立てずに処理するには、非メンバーで日本人のお前が何かと好都合だったのさ。
お陰で、以前から怪しい動きをしていた佐久間や他の鼠を駆除できた。助かったよ」
「全て仕組まれていたって訳か・・・本当にそれだけか?」
「・・・否。

・・・お前は、死んだ榊先生に良く似ているんだ。顔や雰囲気、どうしようもない甘さ加減までな。
あの親子の『力』はちょっと厄介でね。一旦発動すると歯止めが利かないし、彼女達自身がコントロールできる類のものでもないんだ。
・・・死んだ旦那や、会ったことはないが父親にそっくりなお前なら、少しでも成功の可能性が高くなると踏んだのだろう。
実際、あの親子は、お前には心を開いていたからな。かなり際どかったけどな」
「T教団や飯山達は?」
「T教団とは手打ちをした。奴らがあの親子に手を出す事は今後一切ない。
奈津子にやられた飯山は、榊の爺さんの処置で何とか命だけは取り留めたが、寝たきりでアーとかウーとしか言えなくなっちまったよ。
奴らも、あの親子の『力』の恐ろしさが骨身に沁みたらしい。とても飼い慣らせるものじゃないと悟ったのだろうさ」
 
やがて、俺達の車はシンさんの自宅に到着した。


298 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:15:06 ID:???0

木島とシンさんたちの打ち合わせが終わると俺は応接室に呼ばれた。
俺と入れ違いに木島が部屋を出て行った。
「近い内に遊びに来い。榊さんやあの親子以外にも、お前に逢いたがっている人がいるんだ。一席設けるから一杯やろう」
俺の肩を叩きながら、そう言って、木島はシンさん宅を後にした。

木島が出て行くと、シンさんが「掛けなさい」と俺に席を勧めた。
テーブルを挟んでキムさんの正面の席に俺は座った。
席に着くとシンさんが口を開いた。
「汚くて危険な仕事を押し付けてしまって、君には本当に済まない事をしたと思っている。
しかし、君がいなければ恐らくあの親子を救う事は出来なかっただろうし、手の付けられない重大な事態が起っていただろう。
マサも、その後に到着した木島君や榊さんも、あの親子の力を止める事は出来なかっただろうからね」
「そうなんですか?」
「ああ。あの親子の恐ろしい力は、身を以って体験しただろう?
あのマサですら、千津子一人の力を受けきれずに命を落としかけたんだ。
お前の機転で奈津子が止まらなければ、あの場にいた者は全員命を落としていただろう」とキムさんが答えた。
「私は、あの親子をどうしても救いたかった。キムやマサ、木島君もね。
しかし、あの親子の力は危険すぎた。7割、いや8割くらいの確率で、最悪の方法を採らざる得ないだろうと覚悟していた」


299 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:15:50 ID:???0

「それほどにまでに・・・」
「ああ」
「あの親子の力って何なんですか?
あの親子は人に呪詛を仕掛けるタマではないし、あの力の発現は一種の『自己防衛』だったように思えるのですが?
それに、あんな危ない橋を渡ってまで、あなたやキムさん、マサさんや木島さんがあの親子に固執した理由も知りたい」
シンさんは俺を制して言った。
長い話になる。一杯やりながら話そう。そう言うと、若い者に酒を運ばせた。酒は自家製のマッコリだった。

大した強さでもないその酒を2・3杯飲んだシンさんは、
「すっかり酔っ払ってしまった」と言い、「これから話す事は年寄りの世迷言だと思って聞き流して欲しい」と言って昔話を始めた。
シンさんの昔話・・・それは、心ならずも呪術の世界に足を踏み入れて、人生を狂わせた男の話だった。
  
30数年前、宋 昌成(ソン チャンソン)と宋 昌浩(ソン チャンホ)と言う在日朝鮮人の親子がいた。
息子の昌浩は優秀な男で、周囲から将来を嘱望されていたらしい。
父・昌成は息子をC大学校に進学させ民族学校の教員、或いは民族団体の活動家にしようと考えていたようだ。
実際、その方面からの勧誘も盛んだったらしい。
だが、昌浩は日本の大学に進学する事を希望しており、進路を巡って父親と激しく衝突した。
昌浩は勘当状態となり、単身上京。
兄の友人が経営する会社で働きながら、勤労学生として大学に通っていたと言う事だ。

ある時、昌浩は、取引先で、ある女と偶然に出会った。
郷里にいた頃、学校の近辺の図書館や学習室でよく見かけた女だった。
その女、『美鈴』にとって昌浩は見覚えのある顔に過ぎなかったようだ。
だが、昌浩にとって美鈴は密かに憧れた『忘れられない女』だった。
始め、『美鈴』は同郷の昌浩を警戒し、彼を避けていた。
美鈴は郷里のある被差別部落の出身者だった。
また、詳しい事は話さなかったが、人の手を借りて家族の元から出奔してきていたらしい。
美鈴は自分の出自だけではなく、同郷の昌浩を通じて郷里の家族に自分の居所を知られる事を極度に恐れていたのだ。
昌浩は自分の在日朝鮮人の出自を明かして「くだらない」と一笑した。
また、自身も父親と衝突して勘当の身であり、郷里には戻れない立場である事を明かした。
二人は交際するようになり、やがて同棲を始めた。
そして、美鈴が懐妊し、その腹が目立ち始めた頃に事件は起こった。


300 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:16:28 ID:???0

美鈴が懐妊して直ぐに、二人はある男に付き纏われるようになった。
男は美鈴の兄だった。
家族に居所を知られると言う、美鈴の恐れていた事態に陥ったのだ。
だが、昌浩は、美鈴の懐妊と言う『既成事実』から事態を楽観視していた。
美鈴の兄の付き纏いは執拗だったが、同じアパートに住む職場の仲間の協力で美鈴に兄の手が及ぶ事はなかった。
しかし、そんなある日、事件は起こった。
その日は、地元の祭りで昌浩やアパート住民の男達は出払っていた。
女達も食事の世話などで出ていたが、身重で朝から体調のすぐれなかった美鈴は部屋で寝ていたらしい。

このような機会を狙っていたのであろう。美鈴の兄がアパートに侵入し、美鈴を連れ出そうとした。
兄は抵抗する美鈴に激しい暴行を加えた。その現場に祭りを抜け出して美鈴の様子を見に戻った昌浩が出くわしたのだ。
美鈴の兄と昌浩は激しく争い、騒ぎに気付いた他の住民が駆けつけた。
昌浩と争い、揉み合いの中でアイロンで頭を殴打された美鈴の兄は、住民が部屋に踏み込むと鮮血を滴らせたまま、アパート2階の窓から道路へ飛び降り、そのまま走って逃げ去った。

身重の身体に激しい暴行を受けた美鈴は住民達の手によって直ぐに病院に搬送された。
美鈴は流産しており、意識が戻らないまま生死の境を彷徨い続けた。
数日後、病院に泊り込んで、意識の戻らない美鈴の看病を続ける昌浩の下に刑事が現われた。
美鈴の兄が死亡したのだ。
凶器を用いた事、相手を死亡させたことにより、昌浩側の情状は考慮されず、結局、昌浩は3年の実刑を受けた。
昌浩は接見に訪れた弁護士に美鈴の安否を尋ねた。
昌浩の逮捕・拘留中に美鈴は意識を取り戻し、ひとまず命を取り留めた。
やがて裁判が始まり、昌浩は実刑判決を受け収監された。
昌浩は美鈴の身を案じ続けていた。
弁護士の話では、暫くの間は社長夫妻が自宅で美鈴の面倒を見て居た。
だが、結局、姉が美鈴を引き取り、美鈴は郷里に戻ったと言う事だった。
あれ程、家族に見つかって実家に連れ戻される事を怖れていた美鈴が、郷里に戻るとは・・・
美鈴の身を案じつつも、獄中に在って何もできない昌浩は己の無力を呪った。


301 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:17:13 ID:???0

刑期も半分以上が消化された頃、昌浩は毎晩のように悪夢にうなされるようになった。
鬼の形相の美鈴が炎の中に立ち、狂気に見開かれた目で昌浩を睨み付けていたそうだ。
昌浩の身体は日に日に痩せ細っていき、その顔には「死相」が浮かんでいたということだ。
美鈴は家族の元に連れ戻される事を極度に恐れていた。何か只ならぬ事態が美鈴に、そして自分に起こっていることを昌浩は直感した。
そんな昌浩の様子を見て、長年、娑婆と刑務所を出たり入ったりの生活をしていた同房者の男が彼に言ったそうだ。
「兄ちゃん、アンタ、誰かに祟られてるね。
俺は、ムショの中で兄ちゃんみたいなのを何人も見てきたが、みんな年季が明ける前に狂って死んじまった。
人を殺したヤツ、強姦や詐欺、乗っ取り・・・娑婆で他人を地獄に落とした悪党どもが被害者に祟られて死ぬなんてのはよくある話さ。
兄ちゃんが何をしたかは知らないが、お勤めが終われば全てチャラなんて、甘い甘い。
人の裁きと、お天道様の裁きは別物なのさ。
覚悟しておくんだな。
俺たちみたいなのは、碌な死に方は出来ないし、死んでも碌な所には行けないだろうさ」
何故か、昌浩に死の恐怖は無かった。
ただ、一刻も早く出所して、美鈴に会いたい、それだけだった。
美鈴の事で思い悩む彼の出所までの日々は地獄のように長かった。

やがて昌浩は出所の日を迎えた。
昌浩が獄に繋がれている間、塀の外の状況は激変していた。
昌浩の勤めていた会社は倒産し、社長夫婦や同じアパートに住んでいた同僚達もバラバラになって行方が判らなくなっていた。
昌浩は美鈴を探す為に郷里に戻った。
郷里に戻った昌浩は激しい衝撃に襲われた。
昌浩の実家の在った一帯は更地となっていた。
不審火による火事で焼失したと言うことだった。その火事で昌浩の母が亡くなっていた。
近所の住民は更に追い討ちを掛ける事実を昌浩に告げた。
火事が起こる前、昌浩と父・昌成との間に立って昌浩をかばい、何かと力を貸し続けてくれた兄が亡くなっていたのだ。
自動車事故で大破した車の中に閉じ込められた兄は、生きたまま炎に飲み込まれ焼死していた。
そして、父・昌成の行方も判らなくなっていた。
昌浩が服役していた僅か3年足らずの間に、宋家は破滅してしまっていたのだ。
余りの事に打ちのめされた昌浩だったが、当初の目的を果たすため、地元の友人・知人の伝を頼って美鈴の捜索を開始した。


302 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:18:05 ID:???0

高校の同級生や地元の友人を頼って美鈴の過去を探ると、美鈴が話さなかった数々の事実が判った。
美鈴は、出身校の学区から離れた、**部落と呼ばれる被差別部落の出身者だった。
美鈴は実家を離れ、元教師の老夫婦の家に下宿し、そこから学校に通っていた。
美鈴や進学した高校、下宿先には連日嫌がらせが繰り返されたそうだ。
昌浩は美鈴のかつての下宿先を訪れたが、そこは老夫婦が亡くなり空き家となっていた。
昌浩は美鈴の実家があるという**部落を当たってみる事にした。
だが、**部落の名が出た時点で地元の友人達は昌浩の前から皆去って行った。
近辺の同和地区の住民達からさえも**部落は決して近付いてはならないとされる「危険地帯」だったのだ。

宋家は昌浩が中学校に上がる前に逃げてきた朝鮮人の「余所者」に過ぎなかった。
地元での**部落という存在の意味を理解していなかったのだ。
そんな昌浩の前に同和団体の活動家だと言う、日本人の男が現われた。
男は駒井と名乗った。
駒井は「**部落に首を突っ込んでる馬鹿はお前か?
余所者の朝鮮人が・・・他人の土地で勝手な真似をしていると死ぬぞ?」と言って、昌浩をある人物の元に連れて行った。


303 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:18:47 ID:???0

駒井は、活動家時代の宋 昌成の同志だった。
かつて、宋 昌成は住環境が特に劣悪だった同和・在日混住地区における「公営住宅獲得闘争」に身を投じ、多額の資金援助を行った過去をもっていた。
彼は家族や家業を犠牲にして、在日活動家の仲間と共に、某政党の言う所の『日本社会の底辺で苦しむ人民の為の闘争』に身を投じた。
その結果、その地区の公営住宅建設計画が認可され、彼らの説得により戦前からその地区に住み続けていた在日は立ち退きに応じた。
やがて、更地となった土地に真新しい公営住宅が建設された。
だが、地域住民で入居を許されたのは「同和」の日本人だけだった。
「日本人ではない」という理由だけで、共に闘い、立ち退きに応じた在日住民たちは入居を許されなかったのだ。
真新しい公営住宅を目の前に、元の住居を失った在日朝鮮人たちは成す術もなく、そこに入居したかつての隣人である同和の日本人と、立ち退きを勧めて回った昌成達活動家に怨念を向けた。
宋 昌成は、彼に活動資金の拠出を何度も要請してきた某政党や、共に戦った同和団体の活動家に行政側の措置の不当性を強く訴えた。
行政に対する抗議闘争、その地区に住んでいた在日住民の公営住宅入居を認めさせる活動への協力を求めたのだ。
しかし、彼らの答えはNOだった。
昌成は絶望に沈んだ。
立ち退きの説得に回った責任感から、彼は持てる私財を全てつぎ込んで、住家を失った同胞の次の住居の手配に奔走した。

だが、朝鮮人に部屋を貸す家主は同胞の中ですら中々見つからなかった。
度重なる心労や苦労は、平等社会や日韓両民族の和合を信じる理想主義者だった彼を変えた。
日本社会で疎外された在日を守るのは経済力、そして、それを背景とした権力に連なる人脈しかないという考えの持ち主へと変貌した。
彼や在日の仲間を利用するだけ利用して切り捨てた「ペルゲンイ」や「ペクチョン」共、そして、日本社会や日本人に憎悪を燃やすようになって行った。
家業が潰れ破産した宋家は、この地に夜逃げ同然で流れてきたのだ。
家業や家庭を顧みずに昌浩や家族を苦境に陥れたが、理想主義者だった「活動家時代」の父を昌浩は深く尊敬していた。
昌浩の出奔の背景には、変貌した父への反発が大きく作用していたようだ。


304 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:20:08 ID:???0

先の「公営住宅獲得闘争」の折、分断工作に遭って共に戦ってきた在日朝鮮人達が切り捨てられた事に、末端活動家だった駒井達は心を痛めていた。
そんな駒井が、かつての同士であり友人でもあった宋 昌成が「**部落」を探っている事を聞き付けた。
始め「**部落」の事を良く知らなかった駒井は、その危険性を仲間に聞いて、昌成を止めるために、彼の許を訪れた。

宋 昌成は美鈴と美鈴の実家に付いて調べていた。
発端は「お前の息子は、質の悪い女とデキて同棲までしている。面倒が起こる前に別れさせた方が良い」と言うタレコミだった。
宋 昌成は昌浩の兄を通じて、昌浩と美鈴が同棲していることを知っていた。
さらに、昌浩の勤務先の社長から、昌浩の身辺を嗅ぎ回っている連中が居る事も聞き付けていた。
やがてタレコミは「昌浩と美鈴を早く別れさせろ。さもなくば、二人だけではなく、お前の家族にも累が及ぶ事になる」と言う脅迫に変わった。
ここで、昌成は調査会社に依頼して、美鈴と美鈴の背後の調査を開始した。
美鈴が「**部落」という被差別部落出身者であることが直ぐに判った。
だが、被差別部落出身者だからといって、昌成には、昌浩と美鈴の仲を引き裂くつもりは全くなかった。
昌成は、美鈴の妊娠が明らかになると、昌浩には内密に、昌浩の兄を通じて美鈴に当面の生活費まで渡していたのだ。
昌成には某政党と同和団体との遺恨、日本社会や日本人に対する怒りや憎しみがあった。
だが、他方で、そういった『恨』を息子の代まで継続する事は不毛と考えていたようだ。
若い二人には平穏な暮らしを送って欲しい・・・そう願って、**部落に関わってしまったらしい。

調べてみると、美鈴の過去は異様な闇に彩られていた。
美鈴には5歳年上の姉がいた。姉の『美冬』はある種の『虐待』を受けていた。
美冬の中学の担任教師と、同和団体の関係者は彼女を救おうと奔走したが、美冬が中学を卒業すると救いの手を差し伸べる手立てを失った。
やがて美鈴が中学に上がり、美冬の担任だった教師は、妹の美鈴の担任となった。
担任教師と件の同和団体関係者は、姉の美冬の強い訴えもあって、中学在学中、家庭訪問を密に行うなど美鈴を監視し続けた。
美鈴は担任教師と同和団体関係者の強い働き掛けにより、中学卒業後、実家から離れた学区の高校に越境入学し、担任教師の学生時代の恩師の下に下宿することになった。
美鈴や下宿先には嫌がらせや脅迫が続いたが、美鈴はこれに耐えて高校を卒業した。
美鈴は実家に連れ戻されることを避けるために、卒業式の前に下宿先の老夫婦の知人を頼って郷里を後にした。
姉の美冬は、少しづつ貯めてきた金を全て美鈴に渡し「二度と帰ってきてはいけない」と言って妹を送り出したと言うことだ。
だが、美鈴が郷里を後にして直ぐ、下宿先の老夫婦が亡くなった。
更に、美鈴の進学に尽力した担任教師と同和団体の女性も時を同じくして急死していた。
関係者の死は、事故や急病など一見普通の死因によるものだった。
だが、周囲の者は皆一様に「**部落の者に関わった報いだ」と言っていたという事だった。


305 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:22:03 ID:???0

「**部落」・・・川沿いにあったその部落は、他の地区とは大きな道路に隔たれていて、正に陸の孤島だったということだ。
50世帯程の小規模の部落で、その成り立ちは調査会社が調査しても良く判らなかった。
その地域の被差別部落は、地元の伝統産業との関わりから、それぞれの部落の成り立ちが比較的明らかだそうだ。
その地域で歴史的に地場産業の最底辺を支えていた被差別部落に、出稼ぎや密入国でやって来た朝鮮人が入り込み混住し始めたそうだ。
部落に入り込んだ朝鮮人労働者は、従来の最下層労働者であった日本人住民の更に下層に当たる最下層労働階層を形成した。
新顔の最下層労働者である朝鮮人労働者に「歴史的雇用」を奪われた部落の日本人住民の生活は困窮を極め、部落は荒れ、住環境は末期的に悪化した。
昭和期に入って技能や職能を身に付けた、或いは戦後の混乱期に経済力を付けた一部の朝鮮人移民は、劣悪な環境だった従来の部落を出た。

彼らは、元いた被差別部落周辺に、新たに朝鮮部落を形成した。
戦後、特に朝鮮動乱で祖国を捨てて流入したニューカマーの朝鮮人は、朝鮮部落内で最下層労働階層を形成して生活圏を確保した。
宋 昌成が「公営住宅獲得闘争」を行ったのは、最初に朝鮮人流入し、労働環境や住環境が崩壊したまま放置され取り残された日韓混住部落だったのだ。
だが、**部落はその何れにも該当しない特異な部落だった。
周辺との交流が極めて薄く、いつからあったのかも、元々何を生業にして成立したのかも明らかではなかったのだ。
どの部落よりも劣悪な環境にありながら、自治体の対策事業で訪れた県や市の調査員を激しい投石などで排除し続けていた。
非常に排他性が強く、同和団体関係者を含めて、部外者が足を踏み入れるには危険を伴う地域と言う事だった。


306 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:22:55 ID:???0

宋 昌成は**部落の闇に引き寄せられて行った。
**部落に関わって不審死を遂げた者は多い。そんな危険な闇に踏み込もうとする、かつての友を駒井は必死に止めようとした。
だが、そうしている内に昌浩の事件が起こってしまった。
理由はどうであれ、道義上、親である自分が被害者の家族に謝罪しなければならない・・・宋 昌成は駒井の制止を聞かずに**部落へ向った。
駒井は宋 昌成に付いて**部落に足を踏み入れた。
**部落は異様な雰囲気だったそうだ。
駒井は、**部落で、それまで感じたことのないような、言い知れぬ不安感に襲われた。
二人は美鈴の実家に着いた。中から出てきた若い女に宋 昌成は身分と事情を明かした。
若い女『美冬』は、声を潜めて「お帰り下さい」と言ったが、中から現われた男が昌成と駒井を迎え入れた。
兄が亡くなった時点で、美鈴の家族は父と叔父、姉の美冬だけだった。
何故か、仏壇神棚の類は一切なく、美鈴の兄に線香を上げようにも、位牌・遺影もなく遣り様がなかった。

宋 昌成は美鈴の家族に昌浩の行いを詫びた。
昌成も駒井も激しい怒りの言葉を予想していたが、美鈴の父と叔父の言葉は穏やかだった。
だが、二人の眼は異様な眼光を湛えて駒井を凍り付かせた。
駒井に言わせれば『人間の目付きではなかった』と言うことらしい。
美鈴の父親は、あれは不幸な事故だったとか、司直の裁き以上のことは求めるつもりはないと言った言葉を口にした。
叔父の方も、若くして犯罪者の汚名を着ることになってしまった昌浩を心配し、父親である昌成の心労をねぎらう言葉を掛け続けた。
だが、そんな言葉の裏で駒井は耳には聞こえない不思議な『声』を聞き続けていた。
二人に言葉を掛けられている昌成は、魂を抜かれたような、呆けた顔をして頷きながら二人の言葉を聴いていた。
だが、駒井の脳裏に響く不思議な『声』の語る言葉は、恐ろしい呪いの言葉だった。
宋一族は滅ぼされる・・・これに関わってしまった駒井一族も!
駒井は恐怖に震えた。
やがて、宋家の長男が事故死し、火事で昌成の妻も焼死した。


307 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:23:33 ID:???0

駒井は、ある寺の住職に相談して、某部落の古老を紹介された。
この老人は、苦しい、未来の見えない生活に嫌気が差して故郷を後にし、ある霊能者に拾われて修行した経験の持ち主だった。
駒井を見た老人は、駒井に宋 昌成を連れて来るように言った。
駒井は宋 昌成を古老の前に引きずって連れて行った。
どこか、意識に膜が張った状態で、ボーっとした様子だった宋 昌成は、老人の裂帛の気合と共に繰り出された平手打ちの一撃で混濁した意識から呼び起こされたそうだ。
だが、意識を呼び覚まされた宋 昌成の脳裏には、駒井が**部落の美鈴の実家で聞いたのと同じ声が響き始めていた。
この、呪いの『声』は、宋 昌成が発狂するまで消えることは無かったらしい。
いや、発狂してもなお消えていなかったの見る方が正しいだろう・・・
老人は、ある朝鮮人『呪術研究家』への紹介状を書き、駒井は宋 昌成をその研究家の元へ連れて行った。

老人の紹介状と宋 昌成が調査会社に調べさせたレポート、駒井と昌成が話したそれまでの事情を聞いた『呪術研究家』は、独自のルートで**部落に付いて照会し、調査した。
**部落に付いて調査した上で、この呪術研究家が紹介した男が、駒井が宋 昌浩を連れて会いに行かせた男だった。
男は「拝み屋」金 英和(キム ヨンファ)と名乗った。

**部落は、ある『宗教団体』の信者の末裔によって形成された特殊な成り立ちの部落だった。
信仰の詳細、教団や信仰が現在も存在しているのかは判らなかった。
ただ、**部落の人間は外部の者とは交わらず、部落内だけで婚姻を続けていたようだ。
どうやら、**部落は、採石や危険な土木工事の人足のといった仕事の影で、「まじない」や「呪詛」を生業とした一族の集団だったらしい。
そのような部落に於いて、美鈴の実家は何らかの役割を担っていたようだ。
『呪術研究家』にはある程度予想は付いていたそうだが、**部落は日本全国に散らばる、敢えて言うなら『生贄の部落』の一つだった。
生贄の部落・・・
彼らは『澱み』・・・漂流する呪いや災厄、人々の欲望や怨念から生じる『穢れ』が流れ着いて溜まる、或いは溜まるように細工された土地に封じ込められた人々だった。
『澱み』に封じられた人々は外部からの「血」を入れることも、外部に「血」を広げる事も許されなかった。
彼らが『澱み』に封じ込められたのは、その血が非常に強い霊力を持っていた為だと言う事だ。
その『力』故に、民族?の名も、言語も、神話や伝承も徹底的に奪われた。
彼らの血脈が直接に絶たれなかったのは、彼らを滅ぼすことによって生じる『祟り』を祓う事が極めて困難だからと言う事らしい。
彼らは、並の霊力の血統なら3代と続かずに絶えてしまう穢れの地である『澱み』に、霊力を吸い尽くされて滅ぶまで封じられ続けているのだ。
**部落のあった場所は、地理的に『穢れ』や『瘴気』が流れ込み易いその地域にあって、それらが流れ着く『澱み』に位置していた。


308 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:24:50 ID:???0

宋 昌浩は駒井に連れられて寺に逗留していた金 英和に引き合わされた。
昌浩は、駒井と金 英和にこれまでの経緯を聞かされると、宋家に起こった不幸や服役中に見た悪夢に付いて尋ねた。
金 英和は昌浩に言った。
「宋一族には強力な呪詛が仕掛けられている。
私は君の父上から祓いを請け負ったが、残念な事に呪詛と術者の力が強すぎて祓い切る事は出来ない。
呪詛を仕掛けた人間が明らかになれば、交渉するなり、呪詛返しで凌げる可能性もあるのだが・・・」
昌浩は「呪詛とやらを仕掛けたのは、美鈴の実家の人間じゃないのですか?」と尋ねた。
「呪詛の大元は美鈴さんの実家ではない・・・いや、**部落の人間ですらない。
部落や美鈴さんの実家からの呪詛も掛かってはいるが、相手が判っている以上、こちらは大した問題ではない」
「それじゃ、誰が?」
「問題の宗教団体なのか、他の誰かなのかは判らないが、基本的に**部落の人間は、ある種の『依り代』の役目を負わされているだけだ。
あの部落では、部落を構成する『家』の間で『依り代』役を持ち回りして、当番の家を他の家が監視しているのだ。

今は、美鈴さんの実家が当番らしい。
依り代役の家の中で最も霊力の強い人間が呪詛の『依り代』役を引き受けるのが決まりということだ。
一番霊力の強かった美鈴さんのお母さんは『依り代』役をやっていて衰弱死したらしい。
次に力の強い美鈴さんが『依り代』をやるはずだったのだが、子供を作れない者・・・初潮や精通を迎えていない者は『依り代』は出来ない。
美鈴さんの次に霊力の強かった姉の美冬さんが妹の代理をしていたが、彼女は外部の人間を頼って妹を逃がした。
だが、美冬さんは部落の掟と自分達の『血』を甘く見ていた。
美鈴さんを部落の外に逃した事も問題だったが、最も不味かったのは美鈴さんが君の子を孕んだ事だったようだ」
「どういうことですか?」
「どうやら『依り代』が部落以外の、外部の胤で孕むと呪詛が滞って持ち回りの『家』や部落全体に降りかかるらしい。
それ故に、美鈴さんの兄は彼女を取り戻そうとするだけではなく、彼女のお腹の子を潰そうとし、父親である君を殺そうとした」


309 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:26:16 ID:???0

昌浩は尋ねた「それじゃあ、兄とは母は・・・。父はどうなったんですか?美鈴は?」
金 英和は答えた。
「お兄さんとお母さんは、君達の子供が亡くなったことで再び流れ出した『呪詛』によって亡くなったと見るべきだろう。
君と君の父上は相当強い霊力や生命力を持っているようだ。お父上は’まだ’生きている。
君が見たという美鈴さんの悪夢は、彼女を依り代にした呪詛の現われだろうね」
「美鈴は?」
「君が今無事でいられるのは、生まれてこなかった君達の子供の霊と、美鈴さん自身が君への『呪詛の流れ』を止めていたからだ。
一目だけでも彼女を君に逢わせてあげたかったのだが・・・遅かった。残念だ」
昌浩は泣き崩れた。

金 英和は続けた。
「泣いている場合ではない。宋一族に向けられた呪詛は今、君の父上に集中的に向いていて、君には大した影響は出ていない。
しかし、君の父上はもう長くはない。私の知り合いの霊能者が結界を張って守っているが、彼の命は風前の灯だ。
父上が亡くなれば、次は君の番だ。宋家の血脈が滅び去るまで呪詛の流れは止まらないだろう」
「・・・そうですか」
「君は死ぬのが怖くないのか?」
「家族を失い、美鈴や子供も失って、この世に何の未練があります?もう、どうでもいいですよ」
「それでは、君の父上が浮かばれないな」
「?」
「君の父上は、君を助ける為に敢えてその身に呪詛を受けていると言うのに、君がこれではどうしようもない」


310 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:26:56 ID:???0

「助かる方法があるのですか?」
「ある。だが、それには条件がある」
「条件?」
「私や、私の友人の力では君を助ける事は出来ない。
普通の加持や祈祷では、君に降りかかる呪詛は払えないだろう。
他人の力ではなく、君自身が修行して霊力や生命力を大幅に引き上げる必要がある。
その上で、君達の一族に向けられた呪詛を『引き受ける』術を持つ、ある呪術師の親子の力を借りれば君は助かるだろう。
しかし、君が呪詛に耐えるに必要な霊力を身に付けるための、修行を行う時間はない・・・」
「ならば、どうやって?」
「まもなく、韓国から問題の呪術師の親子がやって来る。
私は『契約』により、呪術師の息子が一族の業の後継者となる子を作り、次の代に引き継ぐまで、息子を監視し助ける義務を負っている。

しかし、残念な事に、私は適性を欠いていたようだ。
修行の過程で体を蝕まれ、呪術師として呪詛に触れる過程で命脈を使い果たしてしまったようだ。義務を果たす事は最早出来ない。
私は、自分が蝕まれている事を知ったときから、自分の代わりとなり得る『適格者』を探し続けてきた。
君には適性がある。
強い霊力の『血』を持つ女は、並の霊力の胤では決して孕まない。
まして、**部落の、美鈴さんの霊力の『血』は何代にも渡って濃縮された極めて強い血だ。
**部落以外の者の胤で孕むことは、極めて稀だろう。しかし、美鈴さんは君の子を宿した。
これは、君に極めて強い霊力や生命力が備わっている証拠だ。
君は私の代わりに、『監視者』たる『金』の姓を名乗って、然る時が来るまで、呪術師の息子を助けて欲しい。
私は、君の一族に降りかかる呪詛を身代わりとなって引き受けよう」
昌浩は金 英和の申し出を受け入れた。


311 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:27:45 ID:???0

昌浩は金 英和に連れられて、霊能者・天見琉奇の元に赴いた。
昌浩が着いた時には、宋 昌成は既に発狂し、衰弱し切った状態にあった。
やがて、韓国から『祟られ屋』の呪術師の親子が来日した。
昌浩は金 英和に成り代わって親子と契約の儀式を行い、父親の呪術師に息子と共に師事した。
昌浩は韓国から来た『祟られ屋』だけではなく、霊能者の『天見琉奇』、呪術師『榊』など、数多くの呪術師・祈祷師・霊能者を師に仰いで修行を重ねた。
宋 昌成や駒井の手によって保護された『美冬』は、天見琉奇に師事し、その卓越した霊力から『天見』の名と彼の教団を継ぎ、後に霊能者・天見琉華となった。
やがて、『祟られ屋』の息子は父親から一族の呪法を受け継ぎ、昌浩と共に呪術師として本格的に活動を開始した。
そんな時に舞い込んだのが、呪術師『半田千津子』の抹殺だった。
『千津子』は『美冬』とは出身部落を異にしていたが、同様の『封じられた』血脈に属する女であることが天見琉奇の霊視によって明らかになった。
『千津子』は何者かによって、その強力無比な霊力を利用され『依り代』として、呪殺の道具にされているだけだったのだ。
彼女の一族は、美冬の一族や**部落とはまた違った、巧妙な方法で呪詛の主に支配されていた。
ある種の呪詛により、思考能力を抑えられて、力の抑制や善悪の判断が出来ない『人形』にされていたのだ。
半田親子の知能障害、一旦発動すると歯止めが利かない強力な『力』は、そこに原因があったと言うことだ。
類稀な才能を認められて危険な術を託され、組織において『呪殺』を受け持ってはいたが、榊は性格に問題のある男だった。
非情になれない、特に女子供に甘い男だったようだ。
彼には、正体の明らかでない何者かに呪詛の道具として利用されているだけの哀れな女を消す事は出来なかった。
だが、彼に背後の術者を探し出す力はなく、組織にもその力を持つ者は居らず・・・天見琉奇を以ってしても特定は不可能だった。
榊は死を覚悟して、父の友人であり、弟子の昌浩や韓国から来た『祟られ屋』の息子を統括する幹部でもあった『呪術研究家』の男に後の処理を依頼して組織を出奔した。
・・・『半田 千津子』の助命を嘆願して。
榊にとって、韓国発祥の教団であり、日本の神々や呪術・霊力とは敵対する『T教団』に千津子を委ねたのは、彼女を『支配者』である術者から切り離す上での窮余の策であったのだ。
やがて、組織の命により榊は抹殺されたが、呪術研究家の「下手に千津子に手を出せば、『支配者』を失った彼女の『能力』の暴走を招き、更なる死者が出る。
下手に抹殺を図って犠牲を出すよりは、彼女を保護しているT教団と協定を結び、彼女の力を封印した方が得策だ」と言う主張が採用され、組織とT教団との間で協定が結ばれた。


312 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:28:27 ID:???0

宋 昌成・昌浩親子に『拝み屋』金 英和を紹介した在日朝鮮人実業家で呪術研究家の男・・・シンさん。
韓国から来た『祟られ屋』の息子・・・マサさん。
その父親と契約を結び、名を変えてマサさんを監視し、補佐する呪術師の宋 昌浩=キムさん。
彼らは、マサさんの一族に伝わる特異な『朝鮮の呪法』を以って、彼らの属する呪術団体の中で地歩を固めて行った。
マサさんの一族と組織の関わりはかなり古いものらしい。

以前から不思議に思っていた・・・実業家であり、呪術師や祈祷師でもないシンさんが、組織や呪術の世界、マサさん達に何故関わるのか?
俺はシンさんに疑問をぶつけた。
シンさんは答えた。
「拝み屋だった金 英和は私の息子なのだよ。
申家は、ある無茶な仕事で酷い祟りに遭ってね、一族が滅びかけた事があるんだ。いや、滅んでいるはずだった。
申一族はマサの祖父に救われたが、事業が頓挫した我々には、約束の報酬を支払う事が出来なかった。
だから、『適格者』だった私は、多額の謝礼の代わりにマサの祖父と契約を結んだのさ。
だが、私が修行に入る前に、息子が出来てしまった。
不測の事態で仕方なく、私の代わりに弟が『監視者』として修行の道に入ったが、適性を欠いていたらしく、使命を全うする事無く死んだ。
私と弟に成り代わって、申家のマサの家に対する義務を果たすべく、息子はマサの父親と契約を結んだが、彼も適性を欠いていて命を落とした。
申家の生き残りは私だけだ。
老い先短い私には、命の続く限りマサやキムを補佐する義務がある。
申家の宿命を代わりに背負った宋家・・・いや、キムにはシン家が築いて来たもの全てを託す。
その為に、私はキムを表の仕事の右腕として鍛え続けて来たんだ。事業家としても彼は優秀で、私の期待に応えてくれているよ」


313 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:30:40 ID:???0

シンさんの言葉の後、俺はキムさんに聞いた。
「適格と言うのは、例の『導通』の儀式に耐えられる能力と言うことですか?」
「マサ達が適格者を選ぶ基準は私にも良く判らないが・・・恐らくそうだろうね。
私も、マサが父親から呪法を受け継ぐ少し前に、師匠から君と同じ儀式を受けている。
金 英和は、儀式を受けた後、急速に体調を崩して寿命を縮めた。
あの儀式は相当な下準備と、生まれ持っての適性がないと致命的なダメージを肉体に及ぼすと見るべきだろうな」
「俺はマサさんと契約なんてしていない。それに、マサさんは子供どころか結婚も、女もいないですよね?」
「そうだな。君が適格者だとは思えない。君は日本人だからな。
日本人として日本の神々の加護を受けている君には、あの『井戸の呪法』関わる適性は無いと思うんだ。
肉体的特性は兎も角、霊的特性として、朝鮮民族に限られるんじゃないかと私も思う」
「何でマサさんはPではなく、俺にあの儀式を施したんだろう?」
「それは私にも判らない。ただ、確実に言えるのはP君は間違いなく候補者だったはずだ。
彼ではなく、君に儀式を施したと聞いて、我々も驚いたよ。
肉体的条件に適合しなかったようだが、P君の潜在的な霊能力は素晴らしいものがあったからね。
・・・正直、碌に準備もしなかった君があの儀式に耐えて、今も無事で生きていること自体、私には驚きだよ」 
「俺、『導通』の儀式の実験台だったんだろうか?」
「さあな。だが、アイツも相当に甘い性格をしているからな・・・そこまで、非情な行動に出られるか?
君を儀式の実験台に出来るような奴なら、多分、君があのアパートに着く前に、踏み込むと同時に千津子と奈津子を射殺していただろう。
命を落としかけてまで、あんな危ない橋を渡る事はなかったはずだ」


314 :契約 ◆cmuuOjbHnQ:2009/05/06(水) 01:31:30 ID:???0

茶碗に残った酒をグイッと一気に呷ると、シンさんは俺に言った。
「マサが何を考えているかは判らないが、いずれにしても、君は良くやってくれているよ。
君は身体の傷からも、アリサ君を喪った心の傷からも、痛みを忘れているだけで癒え切ってはいない。
本来、あんな危険な仕事を任せられる状態ではなかった。
緊張が解けて、そのうちに後遺症が出てくるだろう。
暫く暇をあげるから、今はゆっくり休みなさい。君の傷が癒えて戻ってくるのを我々は待っているよ。
好きなバイクでツーリングにでも行くと良い。思い切り羽根を伸ばしてきなさい」
 
俺が部屋を出ようとすると、キムさんが「ちょっと待て」と声を掛けてきた。
「木島の所に顔を出すのは良いが、奴には気をつけろ。アイツは、私やマサのように甘い人間ではない。
何を企んでるかは判らないが、目的の為には何処までも非情になれる人間だ。そこのところを忘れるな。
まあ、たっぷり休む事だ。
戻ってきたら、せいぜい扱き使ってやるよw」
 
俺は一礼して、シンさんのお宅を後にした。
 
 
おわり

 

天使

258 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:18:36 ID:???0

アパートの部屋に戻って一服していると、ドアをノックする音がする。
・・・もう、こんな時間か。
ドアを開けると大家のオバサンが若い女を伴って立っていた。
「金子さん、悪いけど、また、なっちゃんをお風呂に連れて行ってくれる?」
「いいっすよ。それじゃあ、なっちゃん、俺と一緒に風呂に行こうか?」
築40年以上のそのアパートには風呂がなかった。
最寄の銭湯まで歩いて10分ほど。
鼻歌を歌いながら歩いていた奈津子が俺の手を握ってくる。
手を握り返して顔を向けると、奈津子は童女のような笑顔を見せて握った手を振る。
半田 奈津子・・・彼女が今回の俺の仕事のターゲットだった。
 
『仕事』とは、要するに奈津子の拉致だった。
乗り気のしない俺は、一度はこの仕事をキャンセルした。
しかし、結局、シンさんの強い要請でこの仕事を請けることになったのだ。


259 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:19:30 ID:???0

半田 奈津子は20代女性。
家族構成は母親の半田 千津子と母一人、子一人。
彼女の戸籍に父親の名はない。
半田親子は奈津子の幼少の頃から、生活保護を受けながら、このボロアパートに住んでいた。
顔写真の奈津子は愛らしい顔立ちをしていたが、何処となく違和感を感じさせた。
資料によれば、奈津子は知能に少々問題があり、療育手帳も受けていた。
母親の千津子は日常生活に問題はないと言う話だったが、読み書きが殆ど出来ないと言う事だった。
病弱で寝たり起きたりの母親と知能障害を抱えた娘の世話をしていたのは、アパートの大家でもある某教団信者の女性だった。
半田親子も、母親が元気だった頃からその教団の信者だった。
娘の奈津子には、教団斡旋による韓国での結婚式の話が持ち上がっていた。
その地区を取り仕切る教団幹部の強い勧めと言うことだった。
確かに、問題の多い教団ではあった。
教団の布教方法や霊感商法、人身売買の疑いも囁かれる『合同結婚式』で韓国に渡った多数の日本人女性の失踪・・・
半田親子の入信の経緯も自由意志によるものだったのかは怪しい。
だが、社会の片隅に放置されていた親子に救いの手を伸ばす者は、その教団・信者だけだったのも事実だ。
家族の依頼による奪還ならまだしも、余りに理のない行為に思えた。
頭の弱い女一人を拉致するなど、半日もあれば済む仕事だろう。
誰の、どんな目的による依頼だかは知らないが、そこらのチンピラに金を握らせれば簡単に片が付く。
少なくともキムさんや、ましてやシンさんが手を下すべき類の仕事にはどうしても思えなかった。


260 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:21:10 ID:???0

再度、この仕事を要請してきたシンさんに、俺は「何故、俺なんですか?」と尋ねた。
「訳あって、任せられる者がいないんだ・・・何とかなりそうなのは君くらいしか思いつかなかった。
キムやマサには、この仕事は無理なんだよ・・・それに、色々と問題があってね」
シンさんは半田親子に付いての別のレポートを俺に渡した。
レポートによれば、シンさんたちは半田親子を20年以上に渉って監視し続けていたことになる。
レポートを読み進めるに従って、俺の背筋には冷たいものが走った。
レポートの内容が正確ならば、一見、人畜無害に見えるこの親子は恐るべき存在だった。
果たして、俺に勤まるのか?
キムさんがシンさんに促されて「どうしても無理なとき、少しでも危険を感じたら躊躇なく使うんだ」と言って、黒いヒップバッグを渡した。
中には油紙と新聞紙で厳重に梱包されたオートマチック拳銃と予備弾倉が入っていた。
・・・ありえねえ!・・・正直、俺は目の前に現われた物と、これを「使え」と言うキムさん達にドン引きしていた。
戸惑う俺に、銃の説明と一緒に、キムさんは半田親子が監視されるようになった経緯を話し始めた。
話はキムさんとマサさんの修行時代、呪術師として駆け出しだった頃に遡る。


261 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:21:59 ID:???0

ある時、シンさんの属する組織にある依頼が舞い込んだ。
それは、ある呪術師の抹殺だった。
その頃、複数の有力者に雇われた数グループの呪術師が、呪詛と呪詛返しを仕掛け合う『呪術戦』を繰り広げていた。
実際には、高い地位に上り詰め、権力の座に座るような強運の人物に対する『呪詛』を成功させるのは、ある一定の条件を満たさないと非常に困難だと言う事だ。
宿業や運気が下降局面に入った所で、マイナスの流れを加速させる形で行わないと呪詛の効果は現われないらしい。
呪詛によって滅ぼされる者は、ある意味、『運』や『功徳』を使い切って、滅びるべくして滅ぼされて行くのだ。
それ故に、天運を味方に付けている者、宿業や運気の上昇局面、絶頂期にある人物に呪詛を仕掛けて成功させることは難しい。
だが、その『呪術戦』は、権力闘争に勝利して絶頂期にあった、ある男の死によって一旦終息した。
古くからの日本の呪術師グループには、いくつかの不文律が存在するということだ。
例えば、国を導く重要人物を、権力闘争の為に『呪殺』することは基本的にしないらしい。
そこが、呪術師が『呪殺』を用いて権力闘争に積極的に加担し、国と民族を導く資質を持った『指導者』を根絶やしにして亡国を加速させた朝鮮との決定的な違いらしい。
いわば、呪術師間での暗黙の馴れ合いなのだが、その男の死は『不文律』に反するものだった。
また、その男を守護していた、『業界』でそれなりに名の通った呪術師も命を落としたということだ。
更に、他の有力者に付いた呪術師にも、呪詛によると思われる変死・事故が相次いだ。
無差別に呪詛を撒き散らし始めた強力で危険なその呪術師を、呪術界、少なくとも関与した呪術集団は放置できなくなった。
そして、『仕事』以外では、呪術師相互で呪詛は仕掛け合わないという、『不文律』に従わない危険人物を消す仕事が、シンさん達の属するグループに回ってきたのだ。


262 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:23:52 ID:???0

かなり古い成り立ちを持つシンさん達のグループは、『呪殺』も受け持つ専門の呪術師を抱えていた。
榊という日本人呪術師だ。
国内の呪術集団には横の繋がりがあり、この国を亡国に導く『危険人物』に協力して呪殺を仕掛けることも、ごく稀にだがあるらしい。
また、呪術師や呪術集団が、他の呪術集団に属する呪術師を雇ったり、大掛かりな呪法への協力を依頼することも、そう珍しい事ではないようだ。
シンさん達のグループの『呪殺師』だった榊は、キムさんとマサさんの『師匠』の一人でもあった。
榊は、シンさんの属する呪術グループに何代も属し続けた強力な呪術師家系の出身者だった。
困難ではあったが、榊は確実にこの仕事を遂行する力を持っていた。
しかし、榊は自らが所属する呪術師グループと日本の呪術界を裏切った。
消すべき相手の『呪術師』を連れて逃亡したのだ。
榊が連れて逃げた『呪術師』、それが半田 千津子だった。
関係した呪術師グループや裏社会の人間に追い詰められた榊は最悪の行動を取る。
依頼者や関係呪術師グループの秘密をネタに彼らを脅迫したのだ。
依頼者のプライバシーや秘密に深く関わる呪術師・祈祷師としては最悪の、そして命取りの行動だった。
更に、榊はシンさん達のグループが保有していた呪術や呪物のデータを手土産に某教団の下に走った。
どうやら、日本国内の『呪術・呪物』の情報と引き換えに、政・官・財界に深く食い込んだ、韓国発祥の某教団に千津子の安全の保障を求めたらしいのだ。
その話を聞いて、俺はあることに思い当たり、キムさんに尋ねた。
「もしかして、例の『鉄壷』の情報も、榊から件の教団に渡ったものなのですか?」
以前、俺が関わった、朝鮮民族の生命を生贄に、日本皇室を滅ぼさんとした呪詛の呪物である『呪いの器』
封印場所から、何者かの依頼を受けた韓国人窃盗団の手により盗み出された『鉄壷』は、盗品屋の柳から問題の教団の幹部だった西川達の手によって奪われた。
状況から、韓国人窃盗団に『鉄壷』の盗み出しを依頼したのも西川達だったのだ。
「その可能性は否定できないな。まあ、他のルートからの情報に基づいたものかもしれないが。
奴らは、あらゆる方面から、呪術や呪物、『能力者』の情報を収集しているからね」


263 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:24:49 ID:???0

その教団に対する俺の評価は、宗教を隠れ蓑にしたマルチ商法の集団という程度のものだった。
政・官・財界に深く食い込んでいるのも、結局の所、世俗的・経済的利益追求の為と思っていたのだ。
だが、俺がキムさんに雇われるテストケースとなった事件で、信者から運気を奪い取る邪法を仕掛けていたカルト教団と同様、この教団の闇も深かった。
問題のS教団の最高権力者である名誉会長は色欲と名誉欲、金銭欲にまみれた下種な俗物でしかない。
今回のT教団の韓国人教祖夫妻もまた、それなりのカリスマ性はあるのかも知れないが、色欲会長と同等以下の俗物にしか見えなかった。
しかし、T教団はS教団と比較にならない位に、危険で根深い団体なのだということだった。

T教団は成立当初から、単なる宗教団体の枠を超えた存在だった。
戦後、アメリカはソ連・中国・北朝鮮ベトナムといった社会主義国を包囲する為に、全アジア地域に対する反共軍事同盟を結んだ。
更にアメリカは公然たる軍事的、外交的活動の陰で、CIAという巨大な諜報・謀略機関を使い、各国の財界、政界、軍隊、警察から右翼やヤクザに至る反共勢力を集めた。
世界各地で露骨な反共運動、密かな謀略活動を行わせ、気に入らない政府を流血のクーデターで転覆させ、指導者を暗殺した。
この、アメリカの国策による反共産・社会主義の流れの中で誕生したのが韓国・P政権であった。
T教団は、宗教団体であると同時に、韓国における反共活動組織として、韓米両政府の力をバックに急成長したのだ。
その頃の日本政府も、国鉄労組による左翼活動や安保闘争などに手を焼いていた。
米CIAにとっても、安保闘争におびえた日本の支配層にとっても、共産活動に対抗する、既成右翼勢力ではない新しいタイプの反共団体が必要であった。
特に献身的・無条件に、疑いを抱かず、盲目的に反共活動だけに専念する若いエネルギーが求められた。
そこで目を付けられたのが、韓国においてキリスト教原理主義のもと、数多くの若者が献身的に活動しているT教団だった。
日本に上陸したT教団は、政界・財界・警察を中心とした官界に根深く浸透していった。
国家による暗黙の下、T教団はキリスト教の外皮と呪術的手法により、日本社会を広く深く浸食していった。


264 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:26:44 ID:???0

当初から、日本の宗教界・呪術界はT教団を危険視していた。
韓国政府とキリスト教系宗教団体であるT教団が、ユダヤキリスト教『汎世界エスタブリッシュメント』と深く結び付いていたからだ。
T教団の使命は反共工作活動と同時に、宗教と言う『麻薬』により、彼らの支配の障害となる、各国の愛国者を骨抜きにする事にあったのだ。
そして、『皇室』を頂点として強力な霊力・呪力を有し、壊滅的敗戦によっても彼らに併呑されない日本と言う『特異国家』に於いては、更にもう一つの使命が与えられていた。
それは、日本の宗教界・呪術界に浸透し、日本民族の精神世界を破壊・荒廃させ、日本国の霊力・呪力を破壊することだった。
そもそも、T教団の『日本は悪魔の国、天皇・皇室はサタンの化身、日本民族朝鮮民族に奉仕する奴隷・・・』等といった教義は、それ自体が日本と言う民族国家に対する呪詛そのものと言える。
『子』である日本人自身に日本の神々を誹謗させ、日本民族が受け継いできた精神世界を否定させる・・・T教団の教義に多くの日本人を帰依させることは、何よりも強烈な呪詛なのだ。
敗戦後の神道指令や新憲法下の宗教制度などにより、世俗的な力を奪われた日本の伝統宗教界に、T教団のような『侵略的カルト』に対する抵抗力は残されていなかった。
政界・財界・警察などの力をバックに持ったT教団とその信徒、彼らの走狗である在日韓国人たちが日本の宗教界に浸透し、跋扈するようになった。
彼らの浸透した教団の殆どが、下劣な世俗的欲望に支配されたカルト教団へと成り下がっていった。
程度の差こそあるが、日本の宗教団体・・・信徒数1000人を越える規模の教団で、T教団の浸透を受けていない教団はほぼ皆無と言う事らしい。
前述のS教団もT教団の浸透を受け、乗っ取られてカルト教団へと堕落した数多の教団の一つに過ぎないのだ。
T教団は、多種多様な下部組織やダミー団体を使って、大学のキャンパスや企業、官公庁などで形振り構わない信者獲得を図った。
社会的軋轢や批判を敢えて受けながら広範囲の人材を漁ったのには、もちろん、資金源や世俗的な影響力確保の意味合いもあった。
だが、それと同時に、霊力の平均値が高い日本人にあって、特に霊力・呪力の強い人物を探し出す事も重要な目的だったのだ。
T教団は、日本の宗教・呪術組織の何処よりも、広範囲に『能力者』の情報を収集・保有している組織だということだ。
霊感商法と並んでT教団を有名にした社会問題に、信徒女性を韓国に渡航させての『合同結婚式』がある。
この人身売買も疑われる『結婚式』に参加して、韓国で行方不明になった日本人女性は7000人に及ぶという。


265 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:28:27 ID:???0

なぜ、女性が狙われるのか?
それは、遺伝的に霊能力を集積・定着し、次の血脈に伝えるのは女性に他ならないからだ。
強い霊力を持つ日本女性の血に、朝鮮の呪術の血を注ぎ、より強力な呪術の血を作り出す事が目的だと言うのだ。
理由は定かではないが、日韓(朝)の『能力者』同士の混血は、同民族同士の場合よりも、非常に強力な『能力者』を生み出すらしい。
古くからの呪術や霊能の家に生まれた『能力者』は保護されており、各々の家や所属する組織によって能力をコントロールする術を学んでいるので左程問題はない。
だが、突然変異的に強い霊能力や呪術的な力を持って生まれてしまった者は、その力が強ければ強いほど、通常の日常生活や社会生活が困難になる。
そのような人物を力を削ぎ落とされた日本の呪術・宗教組織が逸早く発見して把握・保護する事は、都市化や地縁社会の解体された現在では非常に困難となっている。
かかる状況下で放置された能力者が、救いを装うカルトに絡め取られる事例は少なくない。
自らの能力に苦しめられた能力者が、居場所と庇護を与えられ、自己の存在価値を認められることによって教祖と教団に依存し、帰依してしまうのだ。
如何わしいカルト教団の中に強力な能力者が散見されるのは、このような事情によるらしい。
韓国で行方不明になった日本女性の中には、こうした『突然変異的能力者』が数多く含まれていると見られている。
また、日本国内の呪術・宗教組織が『能力者』或いは『潜在的能力者』として把握、監視していた人物も含まれていると言う事だ。

T教団には、韓国内の数多くの呪術師や霊能者が幹部、或いは協力者として加わっている。
むしろ、呪術団体としてのT教団の運営者は、『汎世界エスタブリッシュメント』の走狗である彼らだと言った方が正確なようだ。
同胞である韓国人を犠牲にすることも厭わない彼らに反抗して消された韓国人呪術師は多く、日本やその他の外国に逃れた者も少なくない。
日本の呪術団体に所属し、日本の為に働いている韓国人呪術師は多い。
韓国の呪術界から『チンイルバ』として指弾される彼らには、『エスタブリッシュメント』の走狗となって同胞を生贄にする事を厭わない者達に反抗し、祖国を追われた者も少なくないのだ。


266 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:29:39 ID:???0

追われる立場となった榊がT教団の下に走ったのはある意味、必然だったのだろう。
いや、経緯を監視していたT教団の方から榊に接触した可能性もあった。
シンさん達の呪術グループは、裏切り者であり、強力な『呪殺』の術と力を持った榊を放置する事は出来なかった。
キムさんとマサさんは、ある呪法に加わって、師匠である榊に呪詛を仕掛けた。
強力な呪術の血を引き、卓越した呪術の力を持つ榊も、強力な呪力の『源泉』を持つマサさん達には勝てず命を落とした。
榊が死んで直ぐに、T教団とシンさん達の間で手打ちが行われた。
詳細は判らないが、T教団は千津子の呪力を封印し今後一切、呪詛を行わせない事。
シンさん達のグループは、千津子やT教団の幹部に呪詛を仕掛けない事が取り決められたらしい。
千津子はT教団の手により保護された。
だが、直ぐにとんでもない事実が明らかになった。
千津子が妊娠している事が判ったのだ。
千津子はある強力な呪術の血を受け継ぐ女だった。
そこに榊の強力な呪術の血が加わったのだ。
千津子の呪術の血は、ある特殊な由来を持つ血脈に属していた。
この上なく危険な呪術の『血』が、最も危険な団体の手に落ちたのだ。
シンさん達は、千津子と彼女の娘を監視し続ける事になった。


267 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:31:00 ID:???0

奈津子は小学校に上がるまでは、多少の知恵遅れはあったものの、普通の子供だった。
だが、彼女の『能力』の萌芽は凄まじかった。
知能の遅れや動作の遅さ、貧しい身なり等の為か、奈津子は悪童達のいじめのターゲットにされていたようだ。
だが、奈津子は悪童達のいじめや、級友たちの無視にあっても泣かず、いつもニコニコしているような子だったらしい。
ある時、奈津子の通っていた小学校で学芸会が行われた。
クラス全員が体育館のステージに上がって合唱を行う予定だったらしい。
この日の為に、千津子はアパートの大家に手伝って貰いながら、奈津子の為に白いワンピースを縫い上げたそうだ。
奈津子はこのワンピースを着る日を楽しみにしていたようだ。
学芸会の当日、奈津子は千津子に手を引かれて学校へ向った。
親子が学校の正門に続く坂道を上っているときに事件は起きた。
石垣の上に待ち伏せていた悪童達が、親子にバケツで泥水を掛けたそうだ。
奈津子の白いワンピースは悪臭を放つドブの汚水に染まった。
この時ばかりは奈津子も大泣きし、そんな娘の姿を見た千津子も泣いたということだ。
アパートの大家は千津子を連れて学校に猛抗議した。
だが、校長と担任教師は悪童の味方をし、悪童の親の一人はかなり侮辱的な言葉を千津子と大家に吐いたようだ。
大家と千津子の涙を見た奈津子は、唖のように黙り込んで外界に反応を示さなくなり、2週間ほど学校を休んだ。
奈津子が自閉していた2週間の間、悲劇が連続して起こった。


268 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:33:12 ID:???0

奈津子の通っていた小学校では、普段、『登校班』を組んで持ち回りで保護者が子供達を校門まで引率していた。
そんな『登校班』の列に暴走した乗用車が突っ込んだ。
事故は、当時頻発していたAT車の操作ミスによる暴走事故の一例として、報道もされたようだ。
車が大破するほどの事故だったのにも拘らず、突っ込まれた登校班で死亡したのは3人だけだった。
奈津子に泥水を掛けた男子児童2人と、暴言を吐いた母親だった。
更に、奈津子のクラスの児童が次々と謎の高熱を発して倒れ、一人の児童が死んだ。
いつも奈津子に意地悪をする中心となっていた女子児童だった。
事故のためか、『何か』に脅かされた為かは判らないが、女児が死んで直ぐに校長が奈津子のアパートを訪れ、千津子に謝罪した。
だが、翌日から校長は学校を欠勤し、2日後自宅で首を攣っているのを家族に発見された。
校長が死んで直ぐに奈津子のクラスメイトの高熱は下がった。
後遺症の残った児童もいたようだ。
自閉から回復し、再び登校し始めた奈津子を見る周囲の目は一転した。
奈津子は恐怖の対象となっていった。
いつもニコニコして、感情の起伏のない奈津子だったが、一度感情に火がつくと彼女の周囲では死が相次いだ。
千津子が『力』のコントロールを教えたのか、中学の特殊学級を卒業すると奈津子の身辺での変死は起こらなくなった。
だが、レポートに並ぶ数々の変死の実例から、拉致の強行は余りに危険で不可能に思えた。
俺は偽名を名乗って、奈津子の住むアパートに入居した。


269 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:34:55 ID:???0

アパートに入居した俺は、住人による監視の目に晒されていた。
彼らの視線に気付かない振りをしながら、俺はまず、住民の中に溶け込む事に集中した。
やがて、俺に注がれる警戒の視線は弱まり、半田親子との接触も増えていった。
住民と半田親子を観察していて気付いた事があった。
大家を始め、このアパートの住人は、一癖も二癖もある連中ばかりだった。
半田親子が彼らの監視・保護下にあるのは間違いなかった。
しかし、そんな住民達の奈津子へ向ける視線は監視と言うには少々違和感のあるものだった。
教団の指令?や奈津子の『力』への恐怖ではなく、彼女は住民に愛されていたのだ。
奈津子は、立振舞いが少々幼く、言葉も上手くはなかったが、澄んだ目をした女だった。
ありがちな容貌上の『歪み』もなく、見た目は魅力的で健康な普通の女であり、一目見ただけは精神の遅滞など感じられなかった。
人懐っこい無邪気な彼女の笑顔は、人の気持ちを安らがせる不思議な魅力があった。
母親の千津子もそうだったが、この親子の柔らかい雰囲気は人を癒す不思議な力があった。
溶け込んでみると、このアパートには奈津子を中心に居心地の良い幸せな空間が形作られていたのがわかった。
半田親子には、『呪殺』を生業にした恐るべき呪術者の血筋である事、多くの人を死に至らしめた『能力者』の片鱗も見られなかった。
俺自身が奈津子に癒され、当初の目的を忘れかけていた。


270 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:35:57 ID:???0

入居して直ぐに、俺は、サポート役との接触の足として、中古のGB250を手に入れた。
ある日、アパートの前でバイクの整備をしていると、いつの間にか奈津子が近くにしゃがみ込んで、興味深そうに俺の作業を見守っていた。
工具を操る俺の手の動きを目をくりくりさせながら追う様子が愛らしい。
整備が終わった所でキーを挿し、セルを回してエンジンを始動させると、奈津子は「おおっ」と言って手を叩いて喜んだ。
俺は奈津子に「乗ってみるかい?」と声を掛けた。
奈津子は、首を傾げてちょっと考え込むと「うん!」と答えた。
俺は「ちょっと待ってな」と言って、部屋から紫のサテンに鳳凰の刺繍が縫い込まれたスカジャンとヘルメットを持ってきた。
痩せて小柄な奈津子には両方とも大きすぎたようだ。
奈津子の細い肩から上着がずり落ちそうだ。
ヘルメットはどうしようもないので、頭にタオルを巻かせ、アパートの廊下に転がっていたドカヘルを被せて俺達は出発した。
バイクに乗せてから、奈津子は急速に俺に懐いていった。
時々奈津子を後ろに乗せて、走りに出るのが俺にとっても楽しい時間になっていた。
俺は奈津子用のヘルメットを買い与え、紫のサテンの色が気に入ったらしい奈津子にスカジャンも与えた。
奈津子はバイクに乗るとき以外も、サイズの合わないだぶだぶの上着を着て歩くようになった。
こうして、俺は、半田親子の中に入り込むことに成功した。


271 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:37:41 ID:???0

奈津子が俺に懐くようになって、他の住民たちとの関係も急速に好転した。
だが、同時に異変も起き始めていた。
深夜、時々『怪現象』が起こるようになってきたのだ。
電化製品の誤作動や停電、人が近づくまで鳴り止まないピンク電話・・・
金縛りにあった俺は、女のすすり泣く声を聞いた。頭の中に響いてきたその声は、奈津子の声だった。
どうやら、他の住民達も、形や程度は様々だが、各々『怪現象』に見舞われていたようだ。
耐えられずにアパートを出て行った者もいた。
だが、古株の住人達は慣れていたらしく、慌てる者は居なかった。
深夜の怪現象にも拘らず、昼間の奈津子は、いつもと変わらずニコニコと笑顔を振りまいていた。
やがて、怪現象の原因が判ってきた。
現象が起こるのは、決まって、ある男が半田家に立ち寄った日だった。
この男こそが、奈津子に韓国での結婚話をしきりに勧めていた飯山という教団幹部だった。
飯山は強い調子で半田親子に奈津子の結婚を迫っていたようだ。
大家が間に入って親子を庇っていたようだが、教団に庇護されて生活する身で、これ以上の抵抗は不可能だった。
飯山の訪問の頻度が上がるにつれて、半田親子は心労のためか暗い表情を見せるようになった。
俺は奈津子をバイクに乗せて、近くの川まで花見に連れ出した。
同じアパートの住民の男が開いている露店でタコヤキを買って、露店のベンチで食べながら俺は奈津子に言った。
「なあ、なっちゃん。嫌な事は嫌だと言わないと判って貰えないよ?
俺もアパートのみんなも、大家のおばさんだって、皆なっちゃんの味方だよ」
露店の親父もうなづいている。
「自分の気持ち、正直にあのオッサンに言ってみなよ。そうしないと、いつまでも終わらないよ?」


272 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:38:36 ID:???0

数日後、飯山が半田家を訪れた。
俺は室内の様子を伺いながら、踏み込むチャンスを待った。
やがて、飯山の怒声と奈津子の泣声が聞こえて来た。
俺は、部屋に踏み込んだ。
「何だ、君は!」
「その親子の友人だ。アンタいい加減にしろよ?この親子がアンタの持ち込んだ結婚話を嫌がって拒否してるのが判らないのか?」
「信仰上の問題だ。我々には信教の自由が保障されている。部外者の口出しは遠慮してもらいたい」
憲法20条1項ってやつだな」
「判ってるじゃないか」
「だが、憲法は24条1項でこうも言っている。婚姻は両性の合意のみに基づいて成立するってな」
「・・・」
「この親子はアンタの持ち込んだ結婚話を嫌がっている。アンタ達の合同結婚式は社会問題にもなっているよな?
知的障害を抱えた親子を、その意思に反して引き裂こうと言うアンタ達の行いは、被害対策弁護団やマスコミのいいネタだろうな」
「・・・」
「この親子から手を引けよ。それがアンタの地位と教団の名誉を守る最善の道だ。これ以上無茶を言うなら出る所に出るぞ?」
しばしのやり取りの後、飯山は怒りに煮え滾った視線を俺に向け、親子に「悪いようにはしないから、もう一度よく考えなさい。また来る」と言って出て行った。
 
部屋の片隅で、涙や鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした奈津子が肩を震わせていた。
俺が奈津子の頭を撫でながら、「あのオッサンに嫌だと言ったんだな?よく言えたな、偉いぞ!」と声を掛けると、奈津子は俺の胸に抱きついてきて、声を上げて泣き出した。


273 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:40:33 ID:???0

それから数日間は、飯山も姿を見せず、平穏な日々が続いた。
だが、このまま平穏無事に事態が終息するとは思えない。
俺は警戒を強め、計画の実行の機会を探っていた。
そんな時に、サポート役の男から『緊急事態が発生した。早急に接触したい』連絡が入った。
バイクを引っ張り出してエンジンを掛けようとすると奈津子が玄関から出てきてきた。
俺が「悪いな、これから用事があるんだ。また今度な?」と言うと、
奈津子は首を振りながら「お姉ちゃんが、行っちゃダメだって言ってる。行かないで」と言う。
だが、俺は「ごめんな」と答えて出発した。
奈津子の言葉が気にならないではなかった。
だが、奈津子の言う「お姉ちゃんを」アパート住民の水商売の女性と誤解し、彼女が飯山の再訪を警戒して言ったのだと俺は思い込んでいた。
俺の留守中の守りは、タコヤキ屋の男に任せてあった。この男は教団信者でもなく、信用できる男だった。
少なくとも、サポート役として派遣されてきている男よりは信用していた。
俺は指定された場所へとバイクを飛ばした。

サポート役として派遣されてきていた男は佐久間と言う日本人だった。
シンさんの配下ではなく、木島の関係者だった。
話をしていて、この男が、韓国人でありながら組織で重要な地位を占めるシンさん達に良い感情を持っていないことが判った。
また、呪術や霊能といった『能力者家系』ではなく、一般家庭の出身である俺を見下していることも肌で感じられた。
俺は、佐久間を信用できず、最悪、フォローなしの単独での計画実行を覚悟していた。
だが、強攻策に出れば半田親子がどんな反応を示すかわからず、シンさんに渡された拳銃を使用するような事態は絶対に避けたかったので、正直、手詰まりの状態でもあった。
 
40分ほどバイクを走らせると、俺は指定場所に到着した。


274 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:41:34 ID:???0

デイマースイッチでライトを点滅させると、前方のセダンから3人の男が出てきた。
一人は佐久間、後の二人は知らない顔だった。
一人はガタイも良く、荒事にも慣れていそうな雰囲気だった。
もう一人は初老の男性で、体躯は貧弱だが、狡賢そうな油断できない雰囲気を漂わせていた。
俺は佐久間に「緊急事態とは何だ?この二人は何者だ?」と語尾を強めて尋ねた。
すると、初老の男が口を開いた。
「金子さん・・・いや、・・・さんでしたね。あなた方の計画は佐久間さんから聞いて、貴方があのアパートに入居する前から知っていました」
「佐久間、テメェ・・・」
「お怒りはごもっとも。しかしですね、佐久間さんも、あなたも、あの韓国人たちに『拉致』なんて汚い仕事を押し付けられた訳ですしね。
韓国人の手先となって、日本人のあなた方が同じ日本人である半田奈津子さんの拉致に手を染める事に良心の呵責はありませんか?」
「・・・」正直、痛い所を突かれて俺は沈黙した。
「我々は半田さん親子をこれまでもお世話して来ましたし、これからもお世話し続けるつもりです。
奈津子さんの結婚話も、先方は奈津子さんを大変気に入っておりまして、お母様の千津子さんも韓国に呼び寄せて面倒を見たいとおっしゃっています。
このまま日本にいて、あなた方の下に行ったからといって、あの親子が幸せになれる保障は、失礼ながら無いと思いますが?
配偶者を得て子供を生む・・・女性なら誰でも望む当たり前の幸せを、私どもの許を離れた奈津子さんが得られる可能性は低いのではないでしょうか?」
この男の言葉は、俺がこの仕事を請ける以前から葛藤してきた事、そのものだった。
俺の心は揺れた。


275 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:42:29 ID:???0

そんな俺の迷いを突く様に男は言葉を続けた。
「任務を放棄すれば彼らの事だ、奈津子さんのお父様の榊氏のように、あなた方の組織は貴方や佐久間さんを消しに掛かるでしょう。
しかし、ご心配ありません。
我々も強力な呪術師や霊能者を多数抱えておりますし、あなた方の組織と交渉して半田千津子さんの時と同様に『不可侵条約』を結ぶ事も可能です」
俺は黙って男の言葉を聞いた。
反論しない俺の様子に満足したのか、更に男は言葉を続けた。
「佐久間さんは何代も続く立派な祈祷師の家系のご出身です。
あなたも、これまでの仕事振りから、相当な素質の持ち主だと思われます。
しかし、あなた方の組織は、あの韓国人たちに牛耳られて、日本人のあなた方は不当に軽んじられているのではないですか?
佐久間さんは立派な血筋なのに正式な祈祷師・呪術師の地位を認められてはいませんし、貴方はキム氏の会社の従業員扱い。
危ない仕事に数多く関わられているのに、『組織』の正式メンバーですらないですよね?
失礼ながら、正当な評価とは思えません。
もし我々に力添えしていただけるのであれば、正当な地位と報酬を約束させていただきます。
貴方の才能を伸ばすべく、『修行』のお手伝いもさせていただけると思います。
佐久間さんからは快諾を頂いております。貴方も是非に!」


276 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:43:14 ID:???0

男の言葉には納得できなかったが、反論の言葉も見つからなかった。
そんな俺の脳裏に『行ってはダメ』と言う奈津子の言葉と、何故かアリサの顔が浮かんだ。
俺は迷いを払って言った。
「俺は別に拝み屋になりたいとも、組織で地位を築きたいとも思っていないんでね。
まあ、給料やギャラは、タンマリ貰えれば文句は無いが、見境無く餌に飛びつく犬は毒を喰らって早死にしかねないからな。
俺は彼らに対して恩義がある。これは俺の信義の問題だ。
例え飢えたからといって、信義に反して他人から餌を貰うつもりは無い。
他人を裏切って自分の下に来た人間を俺は信用しないし、信用されるとも思えないしな。
あんたの言葉はもっともらしく聞こえるが、日本人の俺には、日本を悪魔の国、日本人を韓国人に奉仕する奴隷と看做すアンタ達の教義には帰依も賛同も出来ない。
日本人でありながら、あの教義に賛同し帰依できるアンタ達も理解できない。
俺はこの仕事で、あの親子と縁を持った。
韓国へ渡って行方不明になった日本人女性がどうなったか判らない以上、あの親子を韓国に行かせるつもりは無い。交渉は決裂だ」 
「残念ですね。でも、あの親子は飯山さん達がもう連れ出しているでしょうから、あなたには手遅れだと思いますよ」
俺はジャケットをめくり、ウエストバッグから拳銃を取り出して言った。
「お前ら、フェンスを乗り越えて向こうの倉庫のステージまで行け。おかしな真似をしたらコイツをぶっ放す。
佐久間、車のキーをこっちに投げろ。さあ、早くするんだ」
佐久間がセダンからキーを抜いて俺の方に投げると、3人は2mほどの高さのフェンスをよじ登って向こう側に下りた。
俺は、3人が十分に離れたのを見計らってセダンに乗り込み、アパートへ向った。


277 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:45:13 ID:???0

アパートに着くと、白いミニバンと見覚えのある四駆が停まっていた。
俺は車を降りてアパートの中に入った。
アパートの中は騒然としていた。
靴も脱がずに上がり込んで、2階にある半田家の部屋に向った。
部屋の前に見覚えの無い若い男が、魂を抜かれたように呆然と立っていた。
部屋からは異様な空気が漂っていた。
中に入ると台所の流しを背にして誰かいた。
マサさんだった。
脂汗をびっしょりとかいて、立っているのがやっとといった様子だった。
極度の集中状態で俺にまるで気付いていない様子だった。
奥の部屋には飯山と奈津子が倒れていて、マサさんの視線の先には千津子が仁王立ちしていた。
トランス状態とでも言うのだろうか?
異様な殺気を双眸から発して、千津子はマサさんを睨み付けていた。
だが、俺が部屋に入ったことで二人の均衡状態が破れたらしい。
マサさんが胸を抑えて苦しみだした。
「チズさん、いけない!」そう言って、俺は慌てて千津子に駆け寄って肩を揺すった。
千津子の目が肩を掴む俺にギロリと向いた。その視線に俺の背筋は凍りついた。
そして、千津子は白目を剥いて倒れた。


278 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:47:32 ID:???0

千津子が意識を失うと、台所でマサさんがズルズルと崩れ落ちた。
クソッ、どうなっていやがるんだ!
奈津子と共に室内に倒れている飯山は、赤黒い顔色で泡を吹いて意識がない状態だった。
奈津子と千津子の何れかは判らないが、親子を無理やり連れ出そうとして、彼女達の『力』で殺られたのか?
混乱する俺に、マサさんが肩で息をしながら言った。
「おい、シンさんから預かった拳銃を持っているな?もう、俺の手には負えない。
その子が目を覚ます前に撃て!」
「ば、馬鹿言ってんじゃねえよ!そんな事、出来るわけねえだろ!」
「いいから、さっさとやれウスノロが!説明している暇はないんだよ!どけ!」
マサさんはフラフラと立ち上がった。
マサさんの右手には俺のと同じ型の拳銃が握られていた。マサさんの銃口が奈津子に向く。
俺はマサさんと奈津子の間に立って拳銃を抜いた。
マサさんに銃口を向けて「アンタらしくないな・・・何故なんだ?」と問いかけた。
「バカヤロウ・・・甘いんだよお前は!クソッ、もう、手遅れだ・・・」そう言うとマサさんの膝がカクッと折れた。
マサさんが崩れ落ちるのと同時に、背後からゾワゾワッと悪寒が走った。
倒れていた奈津子が上体を起してマサさんを睨み付けていた。
俺は慌てて、奈津子の肩を掴んで激しく揺すった。
「ダメだ、なっちゃん!止すんだ!」そう言った瞬間、奈津子の目が俺を睨み付けた。
奈津子に睨み付けられた瞬間、俺の全身に電撃のような痛みが走った。


279 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:49:05 ID:???0

俺の胸は心臓を握り潰されたような激しい痛みに襲われ、全身の血が沸騰したかのようだった。
これが奈津子の力なのか?
呪殺者の血脈、多くの人間を死に至らしめてきた力か?
シンさんやキムさん、そしてマサさんが恐れるのは無理も無い。。。
あんなに優しくていい娘なのに、こんな力を持ったばかりに・・・不憫な・・・
ブラックアウトしかけた俺の視界に、奈津子の色の薄い柔らかそうな唇が映った。
何を考えてそうしたのかは覚えていないが、俺は最後の力を振り絞って奈津子と唇を合わせ、強く抱きしめた。
クソッタレ・・・目の前が真っ暗になって、意識が途絶えた。

女の泣き声と、男の「もう大丈夫だ」と言う声で俺は目を覚ました。
心配顔の千津子と涙でベソベソになった奈津子が俺の顔を覗き込んでいた。
「まだ動くな。調息して気を一回ししろ。それから、末端からゆっくりと『縛り』を解くんだ。できるだけゆっくりとな」
声の主は木島だった。
1時間ほど掛けて、俺はようやく起き上がることが出来た。
マサさんの処置は見知らぬ老人が行っていた。
・・・助かったのか・・・何故?
応援がやってきて、俺達はアパートを後にした。


280 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:50:57 ID:???0

木島の運転するマサさんの車に俺は揺られていた。
助手席にマサさん、後部座席に千津子と奈津子、そして俺。
二人は『力』を放出し切ったせいか、泥のように眠り込んでいた。
眠り込んではいたが、奈津子は俺の手を離そうとしなかった。
俺は目を閉じて、調息と滞った気の循環を行っていた。
そんな俺に、マサさんが、いかにもダルそうな声で話しかけて来た。
「お前、あの時、本気で撃つ気だっただろう?酷い奴だ・・・」
「二人はこれからどうなるんですか?事と次第によっては、今度は迷わず撃ちますよ?」
木島が口を挟んだ。
「そうカッカするなよ。二人は『力』を封じた上でマサの『祓い』を施して、ある人物の元で丁重に保護する」
「ある人物?」
「榊さんだ。この娘の祖父に当たる人だ。さっき、マサに処置を施していた爺さんだよ」
俺は絶句した。


281 :天使 ◆cmuuOjbHnQ:2009/04/30(木) 04:52:26 ID:???0

「しかし、よくもまあ、二人とも助かったものだ」木島の言葉にマサさんが続けた。
「まったくだ。良く、あんな状況であんな手を思いつくものだ。あんなことはしないだろう、普通?」
「・・・」
「あれで、その娘の毒気はすっかり抜け落ちてしまったからな。
木島が駆け付けた時、この娘、お前にすがり付いて、わんわん泣いていたらしいぞ」
「いい泣きっぷりだったよ。しかし、まあ、後が大変だな」
「なにが?」
「乙女の唇wを奪ったんだ、高くつくぞ?この娘にとっては初めてだったろうしな。
純粋で真っ白な娘だ。面倒な事になりそうだなw」
「自業自得だ。自分のやったことの責任は自分で取るんだな。俺は知らねぇw」
マサさんがそう言うと、奈津子が寝返りを打って、俺の方に身体を委ねてきた。

穏やかな寝息を立てる奈津子の寝顔は天使そのものだった。
 
 
おわり

 

幻の女

149 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:42:22 ID:???0

どれくらい眠っていたのか、その時の俺には判らなかった。
だが、「ねえ、そろそろ起きない?私、もう行かなきゃいけないんだけど」と言う声で俺は眠りから覚まされた。
声の主は多分、アリサだったと思う。
頬に手を触れられる感覚で、朦朧としながらも俺は目を開いた。
眩しい白い光が俺の網膜を突き刺す。
徐々に明るさに慣れてきた俺の目は見知らぬ天井を見上げていた。
目が回り、吐き気が襲ってくる。
体が異常に重く、全身の筋肉が軋んで痛む。
状況が飲み込めずに呆然としていると、ベッドの横のカーテンが開き、見覚えのある女が俺の顔を覗き込んだ。
2・3年ぶりに見た顔だったが、姉に間違いなかった。
霧のかかった俺のアタマでは姉が何を言っていたのか判らなかったが、慌しい人の気配を感じ、俺は再び眠りに落ちて行った。


150 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:43:03 ID:???0

ヨガスクールの事件が終わり、マサさんと飯を食った後、俺はその足でアリサのマンションを訪れた。
インタホンを鳴らし、エントランスを通ってアリサの部屋まで上がると、アリサは俺を歓待した。
手土産の花とケーキの箱で両手が塞がった俺にアリサは抱き付いた。
「お仕事は終わったの?」
「ああ」
「う~、女の人の臭いがする・・・」
「えっ?!」
「・・・嘘よw」
リビングのソファーに腰を下ろす俺に紅茶とケーキを出すと、アリサは寝室へと引っ込んだ。
寝室から戻ったアリサはラッピングされた箱を俺に渡すと「ハッピーバースデー」と言った。
すっかり忘れていたのだが、俺が山佳京香ヨガスクールに潜入している4ヶ月弱の間に、俺の誕生日は過ぎていた。
箱の中身は、俺がその時使っていたものと同じカスタムペイントの施されたバイク用のヘルメットだった。
このペイント・・・マサさんが、俺の行き付けのショップを紹介したのだろうな・・・
俺はアリサに「ありがとう。大事に使わせてもらうよ」と礼を述べた。


151 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:43:50 ID:???0

俺の言葉に「うん」と答えたアリサの表情は浮かなかった。
こういう時は殆どの場合、彼女は厄介事を俺に隠していた。
そして、彼女の厄介事とは、まず間違えなくストーカー関係のトラブルだった。
俺が彼女と知り合う切っ掛けとなったのも、彼女の知人経由で悪質なストーカーからのガードを依頼されたことからだった。
アリサには強い霊感と共に、人を惹きつける不思議な吸引力があった。
それがある種の男達を繰り返し惹き付けた。
アリサに惹き付けられた男達は、一様に彼女に対し強い嗜虐心を煽り立てられるようだ。
だが、アリサがストーカー被害を相談できる相手は、ごく少数の者に限られていた。
警察に相談すれば?と言う疑問もあるとは思うが、ニューハーフだった彼女はストーカー被害を警察に相談して余程屈辱的な扱いを受けたのだろう。
彼女は警察を全く信用しておらず、相談の相手は俺や、以前働いていた店のママなどに限られていた。
俺は、ママに言われたからではなく、アリサを守ることは俺の仕事・・・そう心得ていた。
だが、俺のストーカーに対する「制裁」が苛烈すぎたのだろう。
アリサはギリギリまで俺に隠して自己解決を図ろうとした。
自己解決・・・ストーカーが諦めるのを待って、ただ耐えるのが「解決」と言えればの話だが。
そもそも、ストーカー被害を第3者の力を借りずして解決するなど、まず不可能な事なのだ。
俺はアリサを問い詰めた。
アリサが俺に語った話は意外なものだった。


152 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:44:31 ID:???0

俺の不在中、案の定アリサはストーカーに付き纏われていた。
アリサはキムさんの「表」の仕事関連の事務を請け負っており、その関連で彼女のストーカー被害がキムさんの耳に入った。
自宅と事務所の往復は事務員の男性の申し出で、彼の通勤の車に便乗していたようだ。
だが、それだけでは心許なく、キムさんはかつて行動を共にしたことのある権さんをアリサのガードに付けた。
以前、「裏」の仕事に協力してくれたということで、キムさんの計らいによるノーギャラでの警護だった。
ストーカーの正体は意外な形で明らかになった。
犯人は北見という男だった。
北見は以前にもアリサに対してストーカー行為を働き、俺の手による「朝鮮式」のヤキで一度目は「電球」を、二度目は尿道でポッキーを喰わされた男だった。
北見のアリサに対する異常な執念は恐ろしいものだったが、そんな北見がアリサのマンション近くの路上で刺されたのだ。
北見の怪我自体は重傷ではあるが、命に関わるものではなかった。
警察は治療が終わり北見の意識が回復すれば、本人から犯人に付いての供述を得られると考えていたようだ。
しかし、麻酔から覚め、意識を取り戻した彼は心神喪失の状態にあり、何かに激しく怯えるばかりで供述を得られる状態では無かったようだ。
捜査は難航し、犯人は捕まらなかった。
だが、北見が再起不能になって、アリサへの嫌がらせはピタリと止んだ。


153 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:45:22 ID:???0

北見を刺した犯人は捕まらなかったが、アリサへのストーカー被害が止んだ以上、そこから出来る事は殆ど無かった。
しかし、依然アリサは自分に向けられる「監視の視線」と尋常ではない「悪意」を感じていた。
アリサの様子に権さんも何か感じる所が有ったのだろう、キムさんに「普通」の事案ではないかもしれないと報告した。
キムさんから話を聞いたマサさんは、俺が不在の間、アリサの相談を聞いていたようだ。
北見を刺した犯人は依然逮捕されておらず、アリサは不安に怯えていた。
キムさんの「有給休暇扱いにしてやるから彼女に付いていてやれ」との言葉で、俺はアリサの警護に付く事になった。
俺は、アリサの自宅と事務所の往復に付き添うと共に、事務所に詰めることにした。
アリサの事務所には先代所長の頃からの事務員の女性と、国家試験受験生だと言う根本と言うアルバイト事務員の男がいた。
この根本が、北見によるストーカー被害が始まって以来、アリサの送迎をしていた男だった。
俺は根本と机を並べて事務所の雑用をこなしつつ、自宅にいる時間以外はアリサと行動を共にしていた。
根本はアリサに対して恋慕の感情を抱いていたようだ。
決して悪い男ではなかったが、アリサの送り迎えは彼にとって貴重な時間だったのだろう。
「受験勉強の邪魔になっては悪いから」というアリサの言葉によってだったが、彼の貴重な時間を奪った俺の存在は面白くなかったようだ。


154 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:45:58 ID:???0

俺がアリサのガードに付いて2・3週間、特に変わったことは無かった。
アリサは怯えていたが、俺にはアリサの言う「悪意」とやらは感じることが出来なかった。
キムさんやマサの元でそれなりに場数を積んだ俺には、危険に対する嗅覚が備わっていた。
力のない俺が何とか無事にやってこれたのは、危険な空気や自分の手に余る危険を嗅ぎ分ける「嗅覚」のお陰だった。
だが、ある月曜日の朝、状況は一変した。
事務所に到着した俺は、一見いつもと変わらない事務所の空気の中に「殺気」を感じていた。
「殺気」はアリサではなく、俺に向けられたものだった。
普段と変わらぬ態度で必死に隠してはいたが、殺気の主は根本に間違えなかった。
俺がアリサの送り迎えをするようになってからも、根本がアリサのマンション近辺に遠回りして通勤している事に俺は気付いていた。
それでも俺の中で根本はストーカーとしてはノーマークだったが、この敵意は彼のストーカー行為を如実に表していた。
堅い商売であるアリサの体面も考慮して、俺は以前のような泊まり込みの警護はしていなかった。
北見のこともあって、アリサを監視するストーカーは、ターゲット本人ではなく、近付く異性に敵意を向けるタイプと俺は踏んでいた。
厄介なタイプだが、俺はアリサから離れたタイミングを狙ってストーカーが俺に向けてアクションを起す事を期待していた。
だが、俺は大きな読み違え、計算間違いをしていたらしい。


155 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:46:38 ID:???0

その前の週末、いつも通りにアリサを部屋に送った俺は、そのまま帰ろうとしていた。
そんな俺にアリサが『たまには寄って行きなさいよ』と声を掛けた。
結局俺は部屋に上がり込み、久しぶりのアリサの手料理に舌鼓を打った。
久々に口にしたアルコールも手伝ってか、そのまま俺達はベッドに雪崩れ込んだ。
寝物語の中でアリサは盛んに『いっそこの部屋に住んじゃいなさい』とか『危ない仕事は辞めて、このまま事務所に勤めてよ』といった言葉を繰り返した。
結局、俺は日曜の夕方までアリサの部屋で過ごしたのだが、そんな俺の行動やアリサとの会話を「聞かれていた」のなら根本の俺への敵意にも納得が行く。
後日、俺はキムさんのボディガードの文の伝で簡易検出器を借りて、勤務時間中に事務所を抜け出してアリサの部屋を調べ上げた。
案の定、アリサの部屋から3個の盗聴器が発見された。
俺は根本を挑発する為に、盗聴器をそのままにして、アリサの部屋に泊まり込んでの警護に方針を変えた。
目論見通り、根本の俺に対する敵意や殺意は日毎に強まっていった。


156 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:47:24 ID:???0

そんなある週末の事だった。
深夜、俺は異様な気配に目が覚めた。誰かに見られているような気配、強烈な「悪意」。
根本が来ていると悟った俺は、アリサを起さないようにベッドから抜け出て服を着るとマンションの外に出た。
人通りはなかったが「気配」を感じる。
盗聴電波の受信範囲から考えて、そう遠くない場所にいるはずだ。
俺は根本を探して付近を歩き回った。
少し先の公園前の路上に見覚えのある青のプジョーが止まっていた。根本の車だ。
エンジンキーは挿しっ放しで、助手席には受信機だろう、大き目のトランシーバーのような形状の機器が無造作に置かれていた。
そう遠くには行ってないはずだ。
俺は携帯でアリサに電話をすると、俺が戻るまで誰が来てもドアを開けないこと、コンポに入っているCDを掛けてくれと頼んだ。
助手席の受信機から伸びるイヤホンを耳に刺し、電源をいれ周波数調節のツマミを回した。
直ぐに受信機が音を拾った。アリサが好んで聞いていたクラナド、いや、モイヤ・ブレナンの曲が聞こえる。
盗聴器を仕掛けた犯人は根本に間違いないようだ。


157 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:48:37 ID:???0

俺は暗い公園の中に入って行った。
テニスコートの先の遊戯場のベンチのそばに人が倒れている。根本だった。
切創などは無かったがダメージは深そうだった。
見た所、「柔らかい鈍器」、ブラックジャックやサップグローブを嵌めた拳で執拗に打ちのめされた感じだった。
俺は救急車を呼び、アリサに連絡を入れた。
根本が病院に搬送されて2時間程して根本の両親とアリサが姿を現した。
アリサのストーカー被害の話は根本の両親も知っていたようだ。
根本の両親はアリサや俺に食って掛かった。
俺は根本の車の中にあった受信機を示して、アリサの部屋に盗聴器が仕掛けられていたこと、状況から犯人が根本である事を説明した。
根本の両親は衝撃を受けた様子だったが、それ以上にアリサのショックは大きかったようだ。
アリサは病院の待合室の床に力なくヘタリ込んだ。
北見の事件のこともあり、根本の回復が待たれたが、意識を回復した根本もまた、何かに怯えるばかりでまともに言葉を交わすことは不可能だった。


158 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:49:34 ID:???0

北見と根本、アリサに付き纏った二人のストーカーは何者かの手によって完全にぶっ壊された。
その意図や目的は判らないが、相手が只者でない事は確かだろう。
アリサの落込みや怯えは只事ではなかった。
アリサは「何で私ばっかり・・・もう嫌・・・」と嘆いた。
俺の発した「全くだ。次から次へと、何度も何度も。俺もいい加減うんざりだ」という言葉にアリサは更に俯いた。
「大体、何度も頭のおかしい連中に付き纏われてるくせに、懲りずに一人暮らしをしているのが良くない。
問題があるのはお前の方かもしれないな。お前、一人暮らしはもう止めた方がいいよ」
「・・・」
「また変なヤツに付き纏われても面倒だから、俺がお前を監視する。俺の部屋には大して荷物もないし、明日にでも早速な」
アリサは「えっ?」と、一瞬呆けたような顔で俺を見て、それから首を縦に振った。
こうして、俺とアリサの同棲生活が始まった。
新生活は暫くの間、平穏に続いた。
ある休日、俺達は近くのショッピングセンターに買出しに出かけた。
女の買い物ってヤツは無駄に長い。
連れ回されて少々うんざりした俺は「ここで待ってるから」と言って、ベンチに座って書店で買った雑誌を読んでいた。
そんな俺に声を掛けてきた女がいた。


159 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:50:06 ID:???0

一瞬、『誰だ、この女』と思ったが、直ぐに思い出した。
高校生の頃に付き合っていた「ノリコ」だった。
久しぶり、どうしてた?といった取り留めのない話で俺とノリコは盛り上がった。
ノリコと暫く話をしていると、アリサがカートを押しながらこちらに向ってきた。
アリサは俺たちの前に来るとノリコを一瞥して、俺に「どなた?」と聞いた。
いつも人当たりが柔らかく、おっとりした雰囲気のアリサには珍しく、その視線や声には険があった。
女の勘ってヤツは怖いな、と思いながら俺はアリサに「彼女はノリコ。高校の同級生。偶然にあって声掛けられちゃってさ」
ノリコには「彼女はアリサ。俺たち、今一緒に暮らしてるんだ」と紹介した。
俺はノリコに「俺達、これから飯を食いに行くんだけど、一緒にどうよ」と儀礼的に誘ってみた。
ノリコは「今日は遠慮しておくわ。また今度ね」と言って、俺達の前から去って行った。
帰りの車の中でアリサは無言だった。
俺が「どうしたの」と聞くと、アリサは「なんでもない」と答えたが、その声は硬かった。
ノリコの事を気にして機嫌が悪いのかなと思って、俺はアリサの手を握った。
握り返してきたアリサの手はビックリするくらいに冷たい汗でべったりと濡れていた。


160 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:50:43 ID:???0

その晩から、アリサは毎晩悪夢にうなされるようになった。
大量の寝汗をかきながら、苦しそうに呻くアリサを揺り起した事もあった。
どんな悪夢を見ているのか、アリサは語ろうとしなかった。
だが、ぎゅっと抱きしめて「ずっとそばにいるから、安心して寝な」と言うと安心するのか、やがて寝息を立てた。
アリサが毎晩悪夢にうなされている以外は、ストーカーの影も無く、生活は平穏そのものだった。
俺はキムさんの仕事に復帰した。
そんなある日、俺の携帯に見知らぬ番号から着信が入った。
電話に出ると、女の声がした。ノリコだった。
再会を祝して飲みに行かないか?という誘いだったが、アリサの調子が良くないからと言って俺はノリコの誘いを断った。
電話を切って、アリサの待つマンションへ向けて車を走らせていて、俺はふと思った。
『あれ?俺、ノリコに携帯の番号教えたっけ?名刺も番号交換もなかったよな・・・?』


161 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:53:34 ID:???0

帰宅して玄関のドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。
いつも夕食を用意して待っているアリサの姿がリビングにもダイニングにも見えない。
俺は寝室に向った。
寝室のドアを開けると、ベッドの上で毛布を被ったアリサが膝を抱えて震えていた。
只ならぬ様子に俺はアリサに駆け寄って聞いた。「どうした?何があった?」
アリサは俺に抱きついて、震えながら「判らない。でも、誰かに見られてる、強い悪意を感じるの。怖い」と言った。
俺は部屋中の明かりを点け、ダイニングの席にアリサを座らせて夕食を作り始めた。
作りながら俺は考えた。
絶対におかしい。
アリサの怯え方は普通じゃない。
だけど、アリサがあれ程までに怯える「視線」や「悪意」なら、俺にも何か感じられるはずだ。
アリサの恐怖は本物だ。だとすれば、俺の勘や感覚がどこかで狂ってる。
不味いな・・・


162 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:54:25 ID:???0

俺は自分の「嗅覚」に確信が持てなくなった。
アリサを、いや、自分自身の身さえ守れる確信のなくなった俺は極度にイラ付いていた。
そんな俺にノリコから誘いの電話が頻繁に入るようになった。
怯えるアリサを放置する事は出来ないし、俺自身が北見や根本を襲った襲撃者の影に怯えてピリピリしていて、そんな気分ではなかった。
そんな俺の神経を逆撫でするように、ノリコの電話の頻度は上がり、誘い言葉も際どくなって行った。
我慢できなくなった俺は「いい加減にしろ!」と一喝して、ノリコの番号を着信拒否にした。
ノリコの電話を着信拒否にして、俺のイラ付きの原因は1つ取り除かれた。
しかし、アリサのうなされ方は夜毎に酷くなっていった。
その晩もアリサは酷くうなされていた。
神経過敏になっていた俺は眠れずにいた。
だが、悪夢にうなされていたアリサが突然目を開け、上体を起き上がらせた。
アリサが起き上がったのとほぼ同時だった。
バイブレーターにしてホルダーに刺してあった俺の携帯が鳴った。
俺の背中にゾクッと悪寒が走った。
この悪寒は危険を知らせる俺の「嗅覚」そのものだった。


163 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:56:12 ID:???0

俺は携帯の方を見た。
有り得ない事に、着信拒否にしたはずのノリコからだった。
あれほどしつこかったノリコの電話もアリサと一緒の時には掛かって来た事は無かった。
まずい、この電話に出てはいけない・・・そう思った瞬間、アリサがホルダーから俺の携帯を取り上げ、電話に出た。
電話に出たアリサは真夜中にも関わらず大声で叫んだ「アンタなんかに彼は渡さない、この人は私が守る!」
そう言うと携帯を投げ捨てて、俺に抱きついて子供のように声を上げて泣いた。
俺はアリサを宥めると、表示されたノリコの携帯の番号に電話をかけた。
しかし、帰ってきたのは「この電話番号は使われておりません・・・」というアナウンスだけだった。
俺の背中に冷たいものが走った・・・
俺はアリサを伴ってマサさんの許を訪れた。
だが、マサさんやキムさんにも、俺やアリサに向けられた呪詛や念、祟りといったものは感じられないと言う事だった。
キムさんが「私の方で調べてみる。何かあったら直ぐに知らせろ。いつでも人を行かせられるように手配しておく」と言って、俺達は別れた。
北見や根本は「物理的」に暴行を受け傷を負っている。しかし、その後の魂を抜かれたような精神状態は霊的・呪術的なものを感じさせた。
俺にはもう、訳が判らなくなっていた・・・


164 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:57:18 ID:???0

アリサは悪夢の中で何を見たのか、電話でノリコに何を言われたのかを俺に話そうとはしなかった。
問い詰めた所でアリサは話さないだろうし、話さないのには彼女なりの理由があったのだろう。
聞いた所で、こちらからノリコに接触する術がない以上、俺にはどうしようもなかった。
ただ、キムさんの知り合いの「女霊能者」が作ってくれたと言う護符のお陰か、アリサの悪夢はどうやら収まった様子だった。
俺は、俺とアリサのために動いてくれている、キムさんの結果を待つしか成す術が無かった。

キムさんの連絡を待ち続けて何日経っただろうか。
恐ろしいほど静かな晩だった。
暗闇の中で俺は何者かの視線を感じて目を覚ました。誰かが俺を呼んでいる?
激しい敵意、殺気が俺を押しつぶさんばかりに部屋に満ちていた。
濃密で強烈な「害意」だったが、アリサは全く反応していなかった。
俺はベッドから抜け出し服を着替えた。
ジャケットの下には、権さんに渡されたイスラエル製の防弾・防刃チョッキを着込んだ。
スーツの下に着ても目立たないほど薄手だが、38口径の拳銃弾も貫通させないと言う優れものだ。
手には愛用のサップグローブを嵌め、鉄板入りの「安全靴」を履いた。
俺は部屋を出た。
ドアが閉まり、施錠の音が止むとマンションの廊下は空気が凍りついたかのように静かだった。


165 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:58:38 ID:???0

エレベーターで1階まで下り、エントランスを出た。
冷たい空気が肌を突き刺す。
俺は辺りを見回し、駐車場へと足を運んだ。
誰もいない、そう思った瞬間、背後から人の気配と足音が聞こえた。
振り返った瞬間、どんっと激しい衝撃を受けた。
男がナイフを腰だめして体当たりしてきたらしい。
ナイフの先端がチョッキを僅かに突き破り、腹の皮膚を裂いたようだ。
鈍い痛みと流れ出る血の感触を俺は感じた。
防弾・防刃チョッキを着込んでなければ一撃で終わっていただろう。
刺された瞬間に放った右フックが男の顎を捕らえたようだ。
サップグローブの重い打撃に男も吹っ飛んだ。
だが、男の手にはまだナイフが握られていた。
脳震盪でも起していたのだろう、フラフラと立ち上がろうとした男の右手首を俺は安全靴の爪先で狙い澄まして蹴り抜いた。
男の手からナイフが吹っ飛んだ。手首の骨は完全に折れていただろう。
俺は畳み掛けるように男の顎を蹴り上げ、男の腹に踵を踏み下ろした。
男は海老のように丸まって悶絶した。


166 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:06:12 ID:???0

俺は蹴り飛ばされたナイフを拾って男に近付いた。
ナイフはダガーナイフ。ガーバーのマークⅡという、名前だけは聞いたことのあるものだった。
右前腕の手首に近い部分が僅かに曲がっており、骨折は明らかだった。
右腕の骨折と腹部のダメージに俺は油断していた。
男の顔を見ようと近付いた瞬間、ヤツの左手が横に動いた。
俺は咄嗟に避けたが額に引っ掻かれたような『ガリッ』という衝撃を感じ、流れ出る血に俺の左目の視界は完全に塞がれた。
逆上した俺は今度は顔面を踵で無茶苦茶に蹴り付けた。
コンクリートに頭のぶつかる鈍い音が聞こえた。男はピクリとも動かない。
殺してしまったかもしれない・・・
俺は血でヌルヌルとした手で携帯電話を取り出し、キムさんの事務所に電話を掛けた。
駆けつけた車で俺と男はキムさんの事務所へと運ばれた。
俺の腹の傷は深さ1cm程だったが、切られた左額の傷は骨まで達していた。
カランビットと呼ばれる特殊な形状のナイフだった為に、思いのほか深く食い込んだようだ。
男のダメージは激しかったが、命に別状はないようだった。
呼びつけられた医者が俺の傷を縫い終わると、殺気立った徐と文が男にバケツで水をぶっ掛けた。


167 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:06:55 ID:???0

水で血が流されると、鼻は潰れ、前歯の殆どが折れて痣だらけだったが、それでも男がかなり整った容姿をしているのがわかった。
「鬼相」とでも言うのか、怒りとも憎しみとも言えない険しい表情がなければ、人の目を引く「美形」と言えるだろう。
色白で特徴のある女顔・・・似ている。。。
「・・・いいナイフを持ってるじゃないか。辻斬りの真似事か?
俺の仲間は運良く助かったが、殺る気満々だったようだな。お前、コイツに何の恨みがある?
お前のやり口には躊躇いってものが無い。何故この男を殺そうとした?」
文がそう言うと、横にいた徐が男の腹に蹴りを入れた。
男は背中を丸め呻いたが、その目には怯みや恐れは無かった。
むしろ、狂った眼光にその場にいた者は圧倒された。
「北見と根本を襲ったのもお前だな?・・・お前、星野 慶だな?」
俺が男にそう問うと、男は血の塊と言った感じの唾を吐き捨てた。肯定ということだろう。
文と徐は『?』な顔をしていた。
「こいつはアリサの、いや、星野 優の実の兄貴だ。実の『弟』に虐待を加えていた鬼畜の変態野郎だよ」
「何故今更姿を現した?逆恨みか何かか?」
すると、慶は気でも狂ったかのように馬鹿笑いを始めた。
「今更だと?俺はお前がアイツと知り合う前から、そう、女になる前からアイツの事を見ていたんだよ。何故だか判るか?」


168 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:07:42 ID:???0

「・・・まさか、守ってたとでも言うのか?」
無言で答える慶に徐が口を挟んだ。
「待て、待て、待て!それじゃ話の筋が通らねえだろ?
俺が言うのも何だが、あのネエちゃんを手前がぶっ殺されそうになっても体張って、ここまで守ろうってヤツはコイツしかいねえぞ?
お前が、あの女をクソ共から守りたいと言うなら何でコイツをぶっ殺さなきゃならねえんだ?」
慶は苦笑しながら答えた。
「お前らには判らないだろうなぁ。それはな、この男のせいでアイツが死ぬからだよ」
「ふざけるな!」と食って掛かる徐を制して俺は慶に尋ねた。
「それは、ノリコの事か?」
「その女が誰かは知らないが、アイツを手に掛けるのはお前自身だよ。俺達兄弟には判るんだ。
『勘』と言うよりはもう少しハッキリした感覚だ。アンタにも有るんだろう?
そうでなければ、俺はアンタを確実にブッ殺せていたはずだ。
アンタ自身、信じられないかも知れないが、アイツを殺すのはアンタだよ。
アイツは生まれた時からどうしようもないクズ共や、色んな不幸を呼び込んで来た。いや、生まれてきた事自体が不幸といえる疫病神だ。
酷い目や危険な目に嫌になるくらい遭って来て、そういうものに対する勘は俺やアンタより数段鋭いはずだ。
判ってるはずだよ。アンタが自分にとってどれだけ危険な存在か。アイツはこっちに向ってる。本人に聞いてみるがいい」


169 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:08:37 ID:???0

文と徐は顔を見合わせた。
事務所に詰めていた二人は俺に呼び出され、俺達を事務所に運んで医者を呼んだが、アリサに連絡はしていなかった。
しかし、5分ほどするとインターホンが鳴り、権さんがアリサを伴って現われた。
室内に入ってきたアリサは慶の姿を見て凍りついた。
かつてアリサは、兄である慶の手により、かなり酷い虐待を日常的に加えられており、兄の存在はトラウマとなっていた。
以前、俺に伴われて郷里に戻った折には、実家に近付いただけでパニック障害と言うのだろうか?過呼吸の発作を起していた。
それ程までに慶の存在は恐怖の対象であり、その実物が目の前に現われ、アリサはショックを受けていた様子だった。
今にもへたり込みそうな身体を権さんに支えられたアリサに俺は「大丈夫か?」と声を掛けた。
声に反応して俺の方を見たアリサは、血塗れの俺の姿を見て一瞬、貧血でも起したのか膝がガクッと折れた。
また過呼吸の発作でも起していたのか、小刻みで苦しそうな息をしながら、権さんの腕を払ってフラフラと俺の方に歩いて来た。
アリサは膝を着き、涙を流しながら俺の両頬に触れると「酷い・・・兄さんが、やったの?私のせい?」と言って、俯いたまま黙り込んだ。
重い空気の室内に聞こえるのはアリサの苦しそうな呼吸だけで、誰も口を開こうとはしなかった。
やがて、アリサの呼吸は落ち着いてきた。
アリサが俺の頬から手を離したので『大丈夫か?』と声を掛けようとした瞬間、彼女はボソッと何かを呟いてフラフラと立ち上がった。
立ち上がり、テーブルの上に並べられた慶の所持していたナイフの一本を取り上げると、般若の形相で「殺してやる!」と叫んで慶に襲い掛かった。


170 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:11:09 ID:???0

徐と文が慌ててアリサを取り押さえた。
ナイフを取り上げられてもアリサの興奮は収まらず、履いてたパンプスを慶に投げつけた。
傷のせいか、医者に注射された薬のせいかはわからないが、熱に浮かされたような状態になっていた俺は重い身体を引き摺るように、座っていたパイプ椅子から立ち上がった。
俺は、徐に後ろから捕まえられ、慶から引き離されたアリサの頬に平手打ちを入れた。
「俺は大丈夫だから、落ち着け!」、そう言うと、アリサは子供のようにわんわん声を上げて泣き始めた。
アリサが泣き止んだ所で、「10年振り?いや、もっとか?久々の再会だろ?言いたい事があったら言ってやりな。コイツもお前に言いたい事があるらしい」
熱が上がってきたらしく、緊張が抜けて立っていられなくなった俺は床に座り込み、壁に寄りかかった。
慶とアリサの会話は暫く続いたが、意識が朦朧としていた俺には話の内容は届いてこなかった。
暖房を入れ、権さんが毛布を掛けてくれていたが、それでもひたすら寒かった事だけを覚えている。
やがて、話が終わったのだろう、権さんが俺の肩を揺すって「おい、大丈夫か?」と声を掛けてきた。
文が俺に「コイツはどうする?」と聞いてきた。
俺はアリサと慶を見た。
慶は「煮るなり焼くなり好きにするがいい。覚悟は出来てる」と言った。
俺は権さんの顔を見てから「二度と俺達の前に現われるな。警察に出頭するなり、逃げるなり勝手にしろ。次は無い」と言った。
徐が慶の手足を縛めていたタイラップを外すと、慶はヨロヨロと立ち上がった。


171 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:12:01 ID:???0

アリサと慶が何を話したのかは判らなかったが、アリサはもう怯えてはいなかった。
慶のアリサを見る目も穏やかだった。
去り際に慶が言った。
「優・・・いや、アリサ。お前は、自分に降りかかる悪意に抵抗する事も無く、ただ流されてきた。
さっき、俺にナイフを向けたのが自分でした初めての反撃だろ?
お前が、自分自身の力で立ち向かわなければ、お前自身だけじゃなく、その男も死ぬぞ」
そう言うと、何処にどうやって隠していたのか、一本のナイフを取り出し、『餞別だ』と言ってアリサに投げ渡した。
ナイフに詳しい文の話では、ラブレスの「ドロップハンター」、ブレードの両面に裸の女が表裏刻印された「ダブルヌード」と呼ばれるナイフマニア垂涎の珍品らしい。
骨まで達した顔面の傷が膿み始めていた俺は高熱を発し、キムさんの知り合いの病院の個室に1週間ほど入院する羽目になった。
顔面の傷はケロイド状に盛り上がり、そのまま残った。
退院した俺は、権さんに「今は彼女の為にならない」と言われ、アリサの部屋ではなく、元いたアパートの部屋に戻った。
入院中、アリサ達は見舞いに訪れたが、微妙な空気が流れていて、退院の連絡はしたが、その後アリサとは連絡を取れずにいた。
アリサたち兄妹が何を話していたのかは、権さんも、文や徐も話そうとはせず、聞くなと言う態度がはっきりしていたので、俺に知る術は無かった。
アリサと連絡を取らなくては・・・そう思いながらもズルズルと時間が経って行った。
そんなある雨の日の夜、アリサから俺の携帯に着信が入った。


172 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:13:13 ID:???0

着信が入る瞬間、俺の背筋には危険を知らせる『悪寒』が走っていた。
電話越しのアリサの声は、電波のせいか、喉の調子でも悪いのか・・・いつもと少し違っていたと思う。
俺はアリサの「今すぐ会いたい。出てこれる?」と言う言葉に「判った」と答えてアパートを出た。
アパートから細い路地を抜けて大通りに出た。
歩行者信号が青に変わり横断歩道を渡り始めた瞬間、俺は眩しい光に照らされた。
ワンボックスカーが猛烈なスピードで突っ込んでくる。
俺は、はっきりと見た。
運転席で女が・・・ノリコが笑っていた。
俺の身体は金縛りにあったかのように硬直した。
その瞬間、俺は強い力で背中を押された。
続いて、激しい衝撃に弾き飛ばされる感覚。
硬くて冷たい、濡れたアスファルトの感触と、ドクッ、ドクッという熱い感覚を頬に感じながら、俺は闇の底に沈んで行った。


173 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:17:19 ID:???0

俺が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
病院に搬入された時、俺は生きているのが不思議な状態だったらしい。
骨盤と脛骨、肩と鎖骨の骨折。頭蓋骨の陥没と顔面の骨折。
頚椎や脊椎にもダメージを負っていた。
出血多量でショック症状を起し、病院に搬送中、救急車の中で心停止も起していたらしい。
俺は1ヶ月以上意識不明の状態で生死を彷徨っていたそうだ。
そんな俺に姉が泊りがけで付き添ってくれていた。
意識が戻った俺は、ドクターが「前例が無い」と言うスピードで回復して行った。
個室から大部屋に移ると、友人達が入れ替わりで見舞いに訪れた。
意識が戻って暫くの間、俺は事故の前後の記憶を完全に失っていた。
だが、キムさんと権さん、そして友人のPが見舞いに来た時に、俺は何の気なしにキムさんに尋ねた。
「一度、来てくれていたような気もするけど・・・アリサが顔を見せてくれないんですよね。今、忙しいんですか?」
姉も、キムさんも権さんも俺と目を合わせようとしない。
だが、『アリサ』の名を口にした瞬間、あの晩のことを俺は思い出した。


174 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:19:04 ID:???0

俺はアリサと待ち合わせをして、待ち合わせ場所に向っていたんだ・・・アリサはどうしたんだ?
そして、俺はPに言った「俺を車で撥ねたのはノリコだ。俺は撥ねられる瞬間、確かに見た」
Pが言った。
「ノリコ?誰だそれは?それに、雨の夜じゃヘッドライトの逆光で運転席の人の顔なんて見えるわけ無いだろ」
俺は「何言ってんだよ。ノリコだよ!俺が高校の頃付き合ってた子だよ。お前も一緒に良く遊んだじゃないか!」
Pは「お前が付き合ってたのは、李先輩の妹の由花(ユファ)だ。お前と友人関係はかなり被ってるいるけどノリコなんて女は知らないよ」
「待ってくれ。そんなはずは・・・アリサに聞いてもらえば判る。アイツもノリコに会ってるから!間違いねえよ!」
興奮する俺の肩に姉が手を置いて言った。
「その、アリサさんはね、あなたと一緒に事故に遭って亡くなったのよ・・・」
「・・・嘘だろ?」
権さんが「本当だ。お前たちの事故を最初に発見して通報したのは朴だ。
お前に付き纏ってる女の話があったから、社長の指示で彼女とお前を引き離したんだが、それが裏目に出た。
彼女には俺の独断で朴を付けていたんだが、彼女は毎晩、お前のアパートの近くまで様子を見に行っていたんだよ。
あの晩、お前は慌てた様子でアパートを出て行き、彼女もお前を追っていった。
彼女に気付かれないように朴も付いて行ったんだが、突然の事にどうしようもなかったんだ」
俺達を撥ねた車は、飲酒運転で検問を無視して追跡されていた若い男の車だったらしい。アリサは即死だったそうだ。


175 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:19:56 ID:???0

アタマが真っ白になった俺にキムさんが続けた。
「お前の言ってたノリコと言う女性に付いて調べたよ。幼稚園から小中学校、高校の同窓生まで調べたが該当する女性はいなかった」
俺の頭は混乱の極みにあった。そんな、馬鹿な・・・ノリコが存在しないなんて。。。
だが次の瞬間、俺は愕然とした。
Pの言う由花の顔は彼女とのエピソードも含めてはっきりと思い出せるのだが、ノリコの顔も彼女とのエピソードの一つも思い出せないのだ。
俺は震えながら拳を握り締めた。
そんな俺に姉が言い難そうに言った。
「ねえ、あなた、子供の頃に川で溺れた事覚えてる?」
「ああ」と俺は答えたが、俺の記憶は曖昧だった。
俺が小学校低学年の頃に川で溺れて死に掛けた事は事実だったが、俺には、その事故の詳細やそれ以前の幼少の頃の記憶は全く無いのだ。
姉は続けた。
「あなたは覚えていないのかもしれないけど、あなたは周りに『ノリコちゃんに突き落とされた』と言っていたのよ」
俺にそんな記憶は無かった。姉は更に続けた。
「あなたが小学校に上がる前、P君たちとよく遊ぶようになる前、あなたは一人遊びが多い子だったの。
お父さんがあなたを出来るだけ外に出さないようにしていたからね。
あなたは時々家から姿を消して家族を慌てさせた。そんな時、いつも言ってたわ。『ノリコちゃんと遊んでた』ってね」
更に話は続いた。


176 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:20:46 ID:???0

どういう理由でかは判らないが、幼稚園に上がるまで、俺は髪を長く伸ばし、下着に至るまで女の子用の服装を身に付けて育てられたらしい。
親父が生まれるまで、俺の実家では何代にも渉って女の子しか生まれなかったそうだ。
祖父は長女だった祖母の婿養子だった。
跡取りにと、男の子を養子にした事もあったようだが、皆、幼いうちに事故や病気で死んでしまったそうだ。
女達も嫁ぎ先で男の子を産んだ者は居なかったようだ。
俺が女の子の格好で育てられたのは、どうやら、そういった事情による「厄除け・魔除け」的なものらしかった。
姉や、近所の年上の女の子たちは俺に自分の服やお下がりを着せたりして、「女の子」、いや、半ば着せ替え人形として遊んでいたようだ。
姉の記憶が正しければ、その時、女の子、或いは「人形」として俺を呼ぶ名前が、誰が言い出したのか「ノリコ」だったそうだ。
俺が川で溺れ死に掛けた時、親父は俺の写真をプリントからネガに至るまで全て焼却してしまっていた。
姉や妹の写真は残っているのに・・・
川での事故以降の写真は、姉や妹の物よりもむしろ多い位だったし、俺自身が写真を残したりアルバムを見返す嗜好が希薄な為、全く気にしてはいなかったのだが。
姉の話を聞く中で、俺の中でゴチャゴチャに絡まっていた糸が解け、一本に繋がっていくような感覚があった。
だが、俺は自分の脳裏に浮かんだモノを見たくなかった。
気づかない振りをして、封じ込めてしまいたかった。
だが、アリサを喪った現実と悲しみがそれを許さなかった。
俺の怪我の回復とリハビリは順調に進み、ドクターや理学療法士達の予想を大幅に短縮して退院の日を迎えた。
退院の日、担当医が言った。
「殺しても死なない人間って言うのは、君みたいな人を言うんだろうね。僕にとっては驚きの連続だったよ。
でも、過信はいけない。亡くなった彼女さんの分まで命を大切にね」


177 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:21:56 ID:???0

俺はアリサの納骨の為に、星野家の菩提寺を訪れた。
アリサの唯一の肉親である慶は行方不明で連絡の仕様が無かった。
アリサの供養が終わって、俺は以前にも世話になった住職に呼ばれて、鉄壷やヨガスクールの事件も含めて、それまでの事を話した。
アリサの事を話し終えると、住職が言った「不憫だ・・・」と
俺は「はい」と答えた。
住職は言った「・・・お前さんの事だよ」
「お前さんの会ったノリコと言う女は、お前さんも判っているんだろう?お前さん自身が作り出した物の怪と見て間違いは無い。
ある資質を備えた幼い子供は目の前に幻影を実体化させて遊び相手にすることがある。
中には実体化した幻影に連れ去られて、姿を消してしまう子供もいる。『神隠し』の一種だな。
この資質は、行者や修行者、霊能者などにとって重要なものなんだよ。
イメージを幻影として視覚化する力・・・仏像や仏画曼荼羅などはこの力を補助する為のものでもあるんだ。
私は、この力こそが『神仏』を人間が生み出した力だと思うんだ。
お前さんは、この力が特に強いみたいだね。
他者による強力な干渉があったにせよ、行の進み方は早いし、験の現われ方も強い。
鉄壷を供養したという技法も確かに初歩ではあるかもしれないが、資質が無い者には不可能な業だよ」


178 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 08:23:30 ID:???0

しばし沈黙してから住職は続けた。
「自ら生み出した幻影に殺される・・・お前さんも、お前さんの家系も相当な因果を持っているんだろうね。
お前さんには確かに強い死の影が纏わり付いている。『魔境』とは違った、根深い影だ。
昔から星野の家の者は霊能の力が強い。長男坊の慶も、お前さんに纏わり付く、『妹』の命を刈り取りかねない程に強い死の影を見たのだろうな。
けれども、お前さんの運や生命力はそれ以上に強いようだ。まだ、生きて遣らねばならない事があるのだろう。
生きている間に、お前さんは自分自身の因果と向かい合わなければならない時がきっと来る。それまで、怠らず、十分に備えることだ」
それにしても、と住職は続けた。
「お前さんの生み出した幻影を一緒に見た彼女・・・お前さんと、魂の深い所で繋がっていたのだろうな。
そんな相手は幾度六道を輪廻して転生を重ねても、そう出会えるものではないだろう。
いや、輪廻転生とはそういう相手を求める魂の彷徨なのかもしれない。
そんな相手に今生で巡りあえたお前さんが羨ましくも、不憫でならないよ・・・」
俺はヨガスクールの事件で関わった山佳 京香たちの事を住職にお願いして寺を後にした。
山門を出て振り返り、一礼してから俺はサングラスを掛けた。

あの日から季節が一巡しようとしていた。
サングラス越しに冷たい風が目に沁みる。
駐車場へと向う俺の視界はジワリと歪んでいた。